仏教界の一部の部派においては、小乗法を専信し、解脱道を専修しながら、大乗法を信ぜず、如来蔵の存在を認めず、意根を信じない。これはすなわち六識のみを承認する六識論者であり、大乗法を仏説ではないと誹謗し、大乗の祖師菩薩を否定する。これは仏法僧の三宝を同時に謗る行為である。三宝を謗る者は仏法中において罪人となり、罪報を受けるのは因果の道理にして、毫厘も違わない。もし罪業を懺悔して滅除しなければ、仏法上の殊勝なる利益、すなわち解脱を得ることはできない。もし三宝を誹謗して我見を断じ解脱を得ると主張すれば、世間に因果なきことを示すか、あるいは因あって果なきことを示すことになる。しかし因果は決して缺席せず、善悪の果報は一瞬たりとも失われることがない。
如来蔵を認めなければ、阿羅漢の入涅槃は断滅空となり、外道と異ならない。小乗より大乗に転向する阿羅漢が無余涅槃において大乗の因縁成熟し、人間に受生して大乗を修学しようとする際、如何にして五蘊身を得るのか。五蘊身を得られなければ、一切の阿羅漢は定性阿羅漢となり、不定性阿羅漢も存在せず、小乗より大乗に転向する阿羅漢も存在しなくなる。この場合、世尊が阿羅漢の入涅槃前に特に説かれた大乗法は、無用のものとなってしまうのではないか。しかし世尊の無量の大智慧は、決して無駄になることなく、説かれた教えと願いは必ず成就するのである。
意根を認めず、意根は意識であると説き、意根の存在を否定するならば、五蘊十八界を観行する際、六根の中の意根を観ることができず、五根のみを観ることになる。十二処を観ずれば十一処となり、十八界を観ずれば十七界となる。このような不完全な観行では、意根が我であるという知見を断除できず、如何にして我見を断じ得ようか。意根は六根の一つであり、根の作用と識の作用を有する。意根の存在を認めなければ、観行は中途半端に終わり、解脱を得ることはできない。
安易に四禅を修得したと称し、軽々しく四果を証得したと主張する者たちの誤解は、いかに甚だしいことであろうか。衆生は我慢が甚だしいため、常に自己を過大評価し、虚心坦懐に自己を検証せず、実事求是に自己を評価しようとしない。その結果、世の中は聖人と称する者で満ち溢れ、仏教は支離滅裂となり、朝綱は乱れ、衆生は依るべき所を失い、仏法の是非を真実に弁えることができなくなっている。末法時代において、衆生の業障はこれほど重い。何処にそれほどの聖人が住世しているというのか。智者たる者は三思し、慎み深く考察し、善く弁えて、流俗に従わぬことを望む。
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