衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年07月03日    月曜日     第1開示 合計3970開示

仏法を誹謗する者は解脱を得られない理由

仏教界の一部の宗派においては、小乗の教えのみを専信し、解脱の道のみを専修し、大乗の教えを信じず、如来蔵の存在を信じず、意根の存在をも信じない。これはすなわち六識のみを認める六識論者であり、大乗経典は仏説ではないと誹謗し、大乗の祖師である菩薩たちを否定する。これは仏法僧の三宝すべてを謗る行為である。三宝を謗る者は仏法において罪人であり、罪人には罪報が伴う。因果は明らかであり、少しも誤ることがない。もし罪業を懺悔して消滅させなければ、仏法における殊勝な利益、すなわち解脱を得ることはできない。もし三宝を誹謗しながらも我見を断じて解脱できると言うならば、それは世の中に因果が存在しないか、あるいは因はあっても果がないことを示すことになる。しかし因果は決して欠けることがなく、善悪の果報は決して無効になったことはない。

もし如来蔵の存在を認めなければ、阿羅漢が涅槃に入ることは断滅空となり、外道と異ならない。小乗から大乗に転向した阿羅漢が無余涅槃の中にあって大乗の因縁が熟した時、人間に受生して大乗を修学し続ける者は、どのようにして五蘊身を得るというのか。五蘊身を得ることができなければ、すべての阿羅漢は定性の阿羅漢となり、不定性の阿羅漢は存在せず、小乗から大乗に転向する阿羅漢もいなくなる。そうなれば、世尊が阿羅漢が涅槃に入る前に特に阿羅漢のために説かれた大乗の教えは、無駄なものとなってしまうのではないか。しかし世尊のあの無量の大智慧は、決して無駄になることがなく、説かれたことや願いは必ず成就するのである。

もし意根の存在を認めず、意根は意識に他ならないとして意根がないと言うならば、五蘊十八界を観行する際に、六根の中では意根を観ることができず、五根のみを観ることになる。十二処は観ることができず、十一処のみを観る。十八界は観ることができず、十七界のみを観ることになる。このように不完全な観行では、意根が自我であるという知見を断じることができず、どうして我見を断つことができようか。意根は六根の一つであり、根としての作用もあれば識としての作用もある。意根の存在を認めなければ、観行は中途半端に終わり、解脱を得ることはできない。

しきりに四禅を修得したと言い、たびたび四果を証得したと主張する人々の誤解は、いかに大きいことか。衆生は我慢が甚だ重いため、常に自己を過大評価し、自己を高く掲げたがり、決して虚心坦懐に自己を検証しようとせず、客観的に自己を評価しようとしない。そのため、世の中は聖人と称する者で溢れかえり、仏教は分断され、秩序は乱れ、衆生は拠り所を失い、仏法の是非を真に弁別することができなくなっている。末法の世において、衆生の業障はこれほど重いのである。どうしてそれほど多くの聖人が世に住むことがあろうか。智者たる者は三思し、慎んで考え、善く弁別されることを願う。流れに従うことなかれ。

——生如法師の開示
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意根に証自証分のある証拠

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阿羅漢の如来蔵は異熟識と呼べるでしょうか?

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