衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年07月01日    土曜日     第1 回の開示 合計3969回の開示

意根に証自証分のある証拠

第一に、悔恨と後悔の行為から、末那識に自証分の存在が証明される。悔恨という行為は、先に末那識が智慧で分別できない状態で、盲目に意識の分析と導きに従い、軽率に選択を下した後、末那識がそれが事実ではないと気づき、当初の選択が誤りであったと認識し、悔いの念を生じる現象である。末那識が自らの下した選択が誤りであったと認識する、これこそが末那識の自証分の機能作用であり、自らを観察した後に自らの誤った選択を発見する働きである。

第二に、末那識の心行の転換から見て、末那識に自証分が存在する。末那識は仏法の修行を通じ、意識の絶え間ない薫染を受け、次第に真理を認識し、過去の愚痴を自覚し、自らを修正し成仏の道を歩むことを誓願する。修行過程で絶えず自己認識を高めることが、末那識の自証分の機能作用である。不断に自らを修正することが、末那識の自証分の働きである。自ら心行を改め、心所法を変化させることこそ、末那識の自証分の機能作用である。

もし末那識に内観力がなく自証分が存在しなければ、末那識は自らを修正できない。末那識が意識の薫染と導きに依ることは事実であるが、最終的に真理を認識し自らを改める主体はあくまで末那識自身であり、意識ではない。もし意識が末那識を改め得るなら、末那識を薫染し導く必要はなく、直接改変すればよい。薫染とは、意識の思想観念が末那識に受容同意され、末那識が同様の思想観念を具え、改められた思想観念に基づき正しい選択と行為を行い、身口意の行いが変化することを意味する。

意識は意識自身のみを改め得、末那識を改め得ない。末那識が自らを改める意志がなければ、意識が強制的に改めることは不可能である。もし意識が強制的に末那識を改め得るなら、仏道修行は容易く、成仏さえも容易であろう。しかし自己改革は能動的行為であり、受動的行為ではあり得ない。受動的変化は一時的であって永続的ではあり得ず、さもなければ全ての衆生は諸仏菩薩によって改められ、六道輪廻の苦から解脱し成仏の道を歩み、誰もが成仏に近づくはずであるが、現実はそうではない。この理を仔細に思惟すれば明らかとなり、理解困難なことではない。

——生如法師の開示
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