万法はことごとく空であり、物もまた万法の中の法であり、すべて空である。何一つとして空でないものはない。例えば、各種の型や種類の車はすべて空であるが、空の車がこれほど多くの奇妙な作用を持っている。手もまた空であるが、これほど多くの文字を打ち出す。確かに不思議なことである。ある者は、如来蔵が車を運転し、文字を打ったと言う。すべて如来蔵の妙用であるという。もし本当にそうであるならば、人類は一日中寝ていても構わない。如来蔵に文字を打たせ、車を運転させ、すべての事業を行わせ、如来蔵に一日一日、一年一年、一世一世と働かせればよい。人類が誕生する必要はない。もし世俗諦を滅却し、完全に勝義諦で置き換えるならば、このような過失は甚だ大きい。世俗諦を離れては、勝義諦は完全に無力であり、為すところがない。どうしてこのようであり、あのようであることができようか。
我々が仏法を学ぶには、仏の説かれた法の通りに実修しなければならない。仏は無上の智恵者であり、すべての法を実修し、ことごとく証得して初めて意味をなす。もし仏が証果を得るにはこのように修めなければならないと説かれるならば、我々は仏の言葉に従い、必ずこのように修めるべきである。自分で発明創造を試みてはならない。どこの誰の説くことを是としてもならない。仏陀に依止することが最も確かなのである。なぜなら仏陀は一切の無明を滅尽し、我執がなく、自我を顕わにせず、盲人が盲人を導くようなことをしないからである。
真に仏法を学んで成就を求めようとするならば、手間を省こうとせず、近道を選んではならない。もし近道があるならば、仏陀は必ず我々に教え、回り道をさせず、ぐるぐる回らせることはなさらない。仏陀を完全に信じること、これが仏法を学ぶ最も基本的な宗旨であり、信が先導となる。もし仏陀が信じられないならば、もはや信じるべき人はいない。等覚や妙覚でさえ信じられないのに、ましてや普通の一般的な人々などなおさらである。もし誰かが説法をして、仏陀と一致しないならば、我々は選択をすべきであり、疑いなく仏陀を信じることを選ぶべきである。
近道をしようとする人々は、すべて貪りの心理を持っている。それは何かを求める心の状態である。貪りがあると容易に魔の入り込む隙を与え、魔に利用され、魔の眷属となり、次第に仏道から離れ、解脱できなくなる。自分を高め、自分を変え、自分を充実させ、自分を成熟させ、自分を完成させるという心構えで仏法を学び修行すれば、魔事から遠ざかり、着実に進むことができる。見た目には遅いようであるが、実際には最も速いのである。性急に進み急ぐことは、却って逆効果となり、事は願いとは反対の結果を招く。
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