一切の法は二つの面において平等で差別がない。第一に、一切の法は生滅変異する無常なるものであり、実体がなく空であり、無我である。存在するその瞬間から空であり、滅した後はさらに空である。第二に、一切の法は如来蔵の性質を具えており、その本性は平等で差別がない。すべて如来蔵が七大種子によって生み出されたものであり、如来蔵の性質を体現している。例えば真金で作られた金器は、すべて真金の性質を含んでいる。金器に差異があっても本質は変わらず、すべて真金であり、真金としての価値を有する。真金は不生不滅で不変であるが、金器は壊れるものであり、壊れた後も変わらぬ真金である。
一切の法が平等不二であるというのは、理解によって得られる平等でも、小乗の教えからくる平等でもなく、大乗の立場から説かれる平等である。小乗の教えも一切法空を説き、空の意味において一切の法を平等とするが、この平等は真の意味での平等ではなく、究竟していない。小乗は世俗の法相に立脚して一切の法を生滅変異する無常の空と説き、生滅の現象は永遠に存在せず最終的に消滅し、消滅後は何も残らないため結果的に平等と見なす。しかし世俗の法相は世俗諦において空ではなく、様々な相を有し、それらの相には高低・善悪美醜・生滅・色相と心相の区別がある。分別がある以上、平等ではない。
大乗の平等は一切の法の本質から説かれる。一切の法の本質は如来蔵の性質であり、如来蔵の不生不滅なる種子の属性である。如来蔵が七大種子によって一切の法の異なる世俗相を現出するが、実質は全て如来蔵の属性であり、如来蔵全体の一部であって、本質は不生不滅不変である。本質もまた空であり、得られるものではない。一切の法が如何に変化しようとも、全て如来蔵の七大種子の機能作用であり、七大種子は永遠に不変で不生不滅不変である。故に一切の法は不生不滅不変であり、平等不二である。如来蔵の視点から見れば一切の法は平等であり、全て如来蔵の性質と相である。如来蔵は一相不二相であり、一切の法もまた一相不二相である。
唯識種智が生じた後に初めて、一切の法の性質と属性を現前に如実に観察し、一切の法の実質を知ることができる。一切の法が如来蔵中の種子から現出したものであり、種子は如来蔵において不生不滅で元来存在し、高低上下の区別がない。故に種子によって形成された法も平等であり、差別がない。しかし世俗法の現象から見れば一切の法に不平等性があり、相に現れた不平等と仏法で説く平等とは弁証法的に統一された関係にある。
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