ある人が意根には自証分がなく、反観力がなく、自らの過去を知らず、意識の観察によってのみ自らの過去を知ると言う。この見解は甚だ誤りである。なぜなら、意根と如来蔵のみが生生世世連続して滅びず、意根は知性を有し、如来蔵が現起する一切の法を知り、また業種と相応し、無量の前世から今世に至るまで、経験した一切の法を忘れたことがなく、知る法は意識をはるかに凌駕するからだ。一生一世の意識が知る情報はあまりに少なく、意根とは比較にならない。過去の経験をこの世の意識は経験しておらず、どうして意識が意根の依り所となり得ようか。むしろ多くの情報、特に過去世の情報は意識が意根に依らなければ知り得ず、神通なき者も神通ある者も例外なく同様である。
例えばある人が別の人と出会い、この人に親しみと懐かしさを覚え、久別の親族のように心が激しく動き、自制できず涙さえ浮かべることがある。実際この二人は前世で家族であり、深い縁がある。今世で感じる特別な親近感は、決して意識が知覚したものではない。意識は何も知らず、意根に依って後知後覚的に知るのである。しかも意識が智慧ある時に限って知り得る。智慧なき意識は涙が溢れても理由が分からず、漠然とする。意識がなぜ涙するのか分からないのは、意根が自制できずに涙しているからだ。意根が平静なら、意識が動揺しても涙は出ず、演技者を除けば。
またある人が他人を見るやいなや不快感を覚え、意識は原因を知らないが、意根は知っている。ただ意識に伝達できないだけだ:実はこの人が陰で自分の悪口を言っていたのだ。意識は見ていないから知りようがなく、不快感は意根が意識に警告した結果である。
では意根に反観力と自証分はあるか。もちろんある。明確である。修養ある者の意根は常に自らを省察し、過ちを犯さなかったか、他人を傷つけなかったか、言行が適切で規範に合致しているかなどを観る。修養なき者でも、重大事態や緊急時、重要な人物に接する時、意根は自らの言行が適切か、悪い結果を招かないかなどを反観する。極めて愚痴な者に限り、意根に反観・省察力がなく、常に無知無覚で、大禍を招いても気付かない。
意根の反観は意根のもの、意識の反観は意識のもの。二者は互いに代替できず、それぞれ独自の心所法を有し、相互に影響するのみ。意根が意識の反観を自己の反観と誤認し、自らの省察を止めることはない。仮に智慧不足でそうなっても、後日反観可能になれば、往々にして過去の選択を後悔する。例えばある人が事を為し終えて忘れ去る。やがて縁に触れ思い出し、腿を叩いて「あの件は間違っていた」と悔いる。この後悔は意識か意根か。意識が反観して誤りを発見したか、意根が発見したか。
ここに意識が分析する時間も機会もない。意根が極めて迅速に腿を叩く動作を決定し、後悔を表す。反応が速ければ速いほど、意根の反観による誤り発見である。腿を叩く行為は意識と身識の共同作業だが、強く叩けば叩くほど意根の後悔は深い。熱湯に手を触れた瞬間手を振るうように、意識が分析する余裕はない。意識分析を待てば手は既に重傷を負い、振るう意味がなくなる。何事も意識に依存すれば、多くの事態が手遅れとなる。過ちを深く反省し、真摯に懺悔するのは意根の働きである。意識の懺悔は本質的に不誠実で、言葉だけ実行しないのは意識の主体性欠如を示す。
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