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日常法話

2023年06月23日    金曜日     第1開示 合計3966開示

意根には反観力証による自証分がある

ある者は、意根には自証分がなく、反観する力もないと言い、それは決して自らの過去を知ることがなく、常に意識の観察に依存して初めて自らの過去を知ると主張する。この見解は甚だしく誤っている。なぜなら、意根と如来蔵のみが生々世々を通じて連続して滅びることがなく、意根は知を有し、如来蔵が現起する一切の法を知ることができ、また業種と相応するからである。無量の前世から今世に至るまで、経験した一切の法を決して忘れたことがなく、知っている法は意識のそれをはるかに凌駕している。一生一世の意識が知り得る情報はあまりにも少なく、意根とは比較にならない。一方、過去の経験は今世の意識が経験しておらず、どうして意識が意根の依り所となり得ようか?むしろ多くの情報は意識こそが意根に依存して初めて知ることができ、特に過去世の情報は、意識は全て意根に依存しなければ知ることができない。神通のない者もそうであり、神通のある者も同様であり、例外はない。

例えば、ある人物がある場面で別の人物に出会い、その人物に非常に親しみや懐かしさを感じ、まるで長く別れていた肉親のように、一瞬にして心潮が激しく揺れ動き、自制できず、感激のあまり涙がこみ上げることさえある。実際にはこの二人は前世で家族であり、深い縁があるため、今世で出会うと格別の親近感を覚えるのである。これは決して意識が了知した後に感じるものではなく、意識は何も知らず、ただ意根に依存して初めて知ることができるものであり、後から気づく存在である。しかもそれは意識に智慧がある時のみ可能であり、智慧のない意識はたとえ涙がこみ上げても、その理由が分からず、漠然としているだけである。意識はなぜか突然涙がこみ上げるが、それはもちろん意根が自らを制御できずに涙がこみ上げるのであり、もし意根が感動しなければ、たとえ意識が感動しても涙はこみ上げず、演技をする者は別である。

また別の例として、ある人物が別の人物を見た途端に気分が悪くなるが、意識はその理由が分からない。しかし意根は知っているのだが、ただそれを表現して意識に理解させることはできない。つまり、その人物が頻繁に陰で自分の悪口を言っているという事実である。これらの事柄は意識が目撃していないため、当然知る由もなく、気分が悪くなるのは当然ながら意根が意識に警告を与えた結果である。

さらに、意根に反観力や自証分があるかどうかと言えば、もちろんある。これは全く疑いの余地がない。修行を積んだ者であれば、意根は常に自らを反観し、省察して、過ちを犯していないか、他人を傷つけていないか、言行が適切で規範にかなっているかなどを確認する。修行のない者でも、意根は重大で緊急を要する事態や非常に重要な人物に遭遇した際には、自らの言動が適切かどうか、良くない結果を招かないかなどを反観し省察する。ただ極めて愚痴な者のみが、意根に反観や省察の力を持たず、常に無知無覚で、大禍を招いても気づかない可能性がある。

意根の反観は意根の反観であり、意識の反観は意識の反観である。この二者は互いに代替することはできず、それぞれが独自の心所法を有しており、互いに流用することはない。ただ互いに影響を与え合うに過ぎない。意根が意識の反観を自らの反観として確認し、自ら省察や反観を行わなくなることはあり得ない。たとえそのような状況があったとしても、それは意根の智慧が不足する特殊な場合に過ぎず、その後意根が自らを反観できるようになれば、大半は過去の選択を後悔するだろう。さらに例えば、ある人物が何かを成し遂げた後、それを忘れてしまい、二度とそのことを考えない。しかし間もなく何かの縁に遭遇し、そのことを思い出し、そこで腿を叩いて「あの件、間違えた」と言う。この後悔は意識の後悔か、それとも意根の後悔か?意識が反観して間違いを発見したのか、それとも意根が反観して間違いを発見したのか?

ここには意識が分析する時間も機会もない。意根は非常に迅速に腿を叩くことを決定し、後悔を表す。腿を叩くのが速ければ速いほど、それは意根が反観の後に誤りを発見したことを示しており、たとえ腿を叩く行為が意識と身識の共同作用によるものであってもである。腿を叩くのが強ければ強いほど、意根の後悔は深い。まるで熱湯で手を火傷した時、即座に手を振るうようなものであり、意識が分析する時間はない。もし意識が分析した後に手を振るうのを待っていたら、手はとっくに原型を留めないほど火傷しており、振るうかどうかはもはや意味をなさない。もし何事にも意識を用いなければならないならば、多くの事柄はキュウリの惣菜が冷めるように手遅れとなり、挽回の余地がなくなる。過ちを犯した時、深く反省し懺悔し、誠心誠意に懺悔し、心から懺悔する。これらは全て意根の懺悔、反省、反観である。意識の懺悔は全く誠実ではなく、口では言うが実行しない、これが意識の言うだけで信頼できない性質、すなわち主体性を欠く所以である。

——生如法師の開示
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