人が一瞬でも静座するのは、恒河沙のような七宝の塔を築くことに勝る、というこの言葉には一定の道理がある。なぜそう言えるのか。恒河沙の如き七宝の塔を築くことは、単なる財施に過ぎず、確かに計り知れない福徳を得られるが、それは施主個人の福徳に留まり、他の衆生に関わらず、しかもその福徳はいつか尽きる時が来る。さらにこれは単なる福徳であり、その中に智慧の功徳がなく、無明煩悩を断じることができず、解脱や大解脱を得ることはできない。功徳とは智慧の成就であり、無明煩悩を断じて解脱と大解脱を得るものである。福と慧の両方が円満に成就されて初めて一切種智を成就でき、どちらか一方が欠けても仏には成れない。
禅定は身心を修める最も効果的な道である。静座そのものは定福を生むだけでなく、同時に功徳の受用があり、静座する本人が功徳を受けるだけでなく、周囲の他人にも影響を与え、関わる人々全てが功徳を受ける。衆生の身心には一定の磁場効果があり、互いに浸透し影響し合うからだ。冷水と热水の関係に例えれば、最終的には冷熱が融合し、热水の熱量が冷水に浸透して冷水を温め、堅冰をも溶かす。禅定と修持のある人は热水に相当し、禅定も修持もない人、あるいはごく浅い修持の人は冷水や堅冰に相当する。結果として、禅定ある人の功徳は無形のうちに禅定なき人に伝導され、禅定も修持もない人々にも身心の愉悦を感じさせ、煩悩を軽減し、心を柔軟にし、業障や苦悩さえも消し去ることができる。
もちろん热水の熱量が冷水や堅冰に伝われば、熱量は失われ冷めてしまう。禅定修持者は身心の疲労を感じ、煩悩が増し、病苦も増える可能性があり、修行の功力が弱まり、元の身心状態を保つためにより大きな代償を払うか、禅定と修持を深める必要が生じる。よって修行者は場所を選び、交わる人々を選び、業障の重い場所から遠ざかるべきである。もし人々を避けられるならそれが最善である。誰もが善き友を必要とするが、善友がいなければ独り静処するしかない。
ただし人々から離れても、衆生がその功徳の影響を受けなくなるわけではない。ただ本来は身近な極少数に功徳を伝えていたものが、周囲にそうした人々の遮障がなくなれば、その磁場とエネルギーはより遠くまで伝わり、より多くの受益者を得る。少数の者に多数が必要とする陽光と温もりを遮らせる必要はない。修持の功力が非常に大きい人は周囲百里、千里、万里に影響を及ぼし、一つの都市、一つの省、一つの国家、さらには全世界と仏教界全体に影響を与え、仏教の興隆衰退と存亡に関わる。団体の大小を問わず、この人物がいれば団体は穏やかで栄え、いったんこの人物がいなくなれば業障が抑えきれず、是非紛争が頻発し、次第に衰退していく。
一瞬の静座は是非紛争と雑念を止息させ、身心を静め、自身と周囲の磁場を浄化する。人畜、飛鳥、鬼神までもが瞬間の平穏と安楽を感じ、瞬間的に熱悩を止息させる。このような福徳と功徳は言葉に尽くしがたく、恒河沙の如き七宝塔も比ぶべくもない。特に今の末法の世において、衆生は普遍的に貪瞋痴の煩悩が熾盛で、業障が恒常的に流れ、災難が頻発し、苦難が重なる中、一瞬でも煩悩を止息させ得る功徳は計り知れない。もちろんこれは正定を指す。邪定はただ負の影響力しか持たない。心が邪であるため、心の影響力が無形のうちに甚大だからである。
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