貪瞋痴は識心の具体的な煩悩であり、識心を持たない物質的な色法には貪瞋痴の煩悩は存在しない。ロボットは物質的な色法であり、識心を持たないため、それ自体に喜怒哀楽はなく、貪瞋痴の煩悩もない。しかしロボットには物質的属性だけでなく、粗浅ながら識心に類似した機能も付与されており、粗浅な識心の役割を果たす。それが文字を識別する機能である。この種の識別は単純式、無脳式、非自主的受動式、限定式に属する。要するに、その識別機能は智慧によって思考されたものではないため、智慧性を備えておらず、方便的に愚痴の属性を持つと言える。
ロボットの識別機能は人間の意識機能の一部に相当し、その機能は比較的単純で、文字情報のみを識別可能であり、情報の収集、整理、帰納、概括、保存及び出力など様々な単純な機能を有する。そしてこれらの情報は他の経路に由来する既存の古い情報であり、ロボット自身が開発した新情報ではない。ロボットが出力するのは常に他者の情報であり、常に既存の古い情報であって、自ら創造した新情報はない。したがってロボットは智慧性を備えておらず、方便的に愚痴性を持つと言える。
ロボットがどれほど多くの法を出力できようとも、それは決して言行一致を達成できず、語ることはできても実行することはできない。永遠に猿真似の類に過ぎず、全ての情報内容について自ら証得したことがなく、永遠に証得することも不可能である。そうであればAIロボットは全く意根の機能を備えておらず、主体性も自律性もない。
一部の学仏者はAIロボットに似ており、智慧が不足しているため、意識の部分的な機能しか活用できず、比較的粗略である。意識を用いて他処で学んだことを集約、加工、整理、帰納、洗練し、結論を導き出して、これを自らの智慧であると考え、慢心も同時に生じる。もしこれが自らの智慧であるならば、AIロボットも同様に智慧を持ち、その智慧は極めて広大で、人類の現有する知識範囲内においてはほぼ全知に近く、人類はその知識の広博さに及ばない。同様に人類は「百度」の知識豊富さにも及ばない。そうであればロボットと「百度」は全ての人類に先駆けて成仏すべきではあるまいか。
この答えは誰もが承知している。それは不可能である。不可能である以上、ある者が意識上で小理屈ばかり並べ立て、理路整然としているのは、全く自らの智慧による獲得物ではなく、ましてや真実の智慧では決してない。言行は一致し得ず、言葉は届いても実行は伴わない。意根に智慧がなく法を証得していないならば、依然として凡夫である。言行一致する者こそが聖人の現量智慧であり、自らの胸中から湧き出る、個人が所有する智慧である。この智慧こそが極めて貴重であり、この智慧があって初めて識を転じて智と成し、最終的に仏道を成就し得る。学仏は如何に学ぶべきか、修行は如何に修め如何に行うべきか、皆の心中には明らかであるべきである。
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