原文:大王よ。識はその主となり、業は攀縁となる。二種相因って、初めの識が生起する。業を作り報いを受けること、皆失われ壊れず。或いは地獄に趣き、或いは畜生に堕ち、琰摩羅界及び阿修羅、人若しくは天に、各々その報いを受ける。同類の心品、相続して随転す。最後の識が滅するを、死蘊と名づく。最初の識が起るを、生蘊と名づく。
釈:仏はおっしゃいます。大王よ、識心は業を作り報いを受ける主人であり、業縁は識心が攀縁して現れたものである。この二者を因として、来世の最初の識心が現れる。すると前世に造った業の果報は決して無縁無故に消滅せず、全てその果報を受けるのです。果報が現れる時、これらの者は或いは地獄に入り、或いは畜生道に堕ち、或いは鬼神道に生まれ、或いは阿修羅・人・天に生まれ変わって、各々各の報いを受けます。このように業行に相応する識心が現れ、新たな五陰身の中で相続して絶えず流転し運行し始めるのです。生命の最後に識心が滅することを死蘊と称し、生命の最初に識心が生起することを生蘊と称します。
原文:大王よ。身識が生ずる時、来るところなく、滅するに至るところなし。彼の縁が生ずる時、来るところなく、滅するに至るところなし。彼の業が生ずる時、来るところなく、滅するに至るところなし。大王よ、少しの法も、この世から他世に至ることはない。何となれば、自性空なるが故に。
このように了知せよ。初識は初識として空、自業は自業として空、身識は身識として空。若し滅すれば滅は空、若し生ずれば生は空。輪廻は輪廻として空。涅槃は涅槃として空。皆自性空にして、作者もなく、亦た受者もなし。若し業若し報、皆得べからず。ただ名相のみにして、分別して顯示する。
釈:仏はおっしゃいます。大王よ、身識が生起する時、来たる所なく、滅する時も去る所がない。業縁が生起する時も、来たる所なく去る所がなく、業行が生起する時も同様に来たる所なく去る所がない。大王よ、いささかの法もこの世から他世へ行くことはできません。なぜでしょうか?一切の法の自体の性質が空であるからです。
私たちはこのように身識を了知し、身識の自性が空であることを了知すべきです。このように自らの識心が造作した業行を了知し、業行の自性が空であることを了知すべきです。このように初識を了知し、初識の自性が空であることを了知すべきです。このように一切の法がもし生起すればその生は空であり、一切の法がもし滅すればその滅は空であることを了知すべきです。同時に業行の造作と流転には作者もなく受者もないことを了知し、一切の法はただ仮の相と名称上の分別による顕示に過ぎないことを知るべきです。
原文:大王よ。諸根は幻の如く、境界は夢の如し。一切の諸法、自性空寂なり。これを空解脱門と名づく。空もまた空の相なく、無相解脱門と名づく。もし相なきならば、則ち希求するものなし、無願解脱門と名づく。もし能く了知すれば、三解脱門は空と共に行じ、菩提の先道は法界の如く広大にして、究竟は虚空の如し。この譬喩について、かくの如く知るべし。
釈:仏はおっしゃいます。大王よ、六根は全て幻化によって現れ、全ての境界は夢を見るようであり、一切の諸法の自性は全て空寂であります。これが空の解脱門です。空解脱門にも空の相貌はなく、無相解脱門と称します。もし一切の法に相がなければ、私たちはもう何も願い求める必要がありません。これを無願解脱門と称します。もし私たちがこの三つの解脱門を究竟的に了知し、それらが全て空と共に行じ空そのものであることを悟るならば、涅槃の菩提の大道は如来蔵の法界のように広大であり、その究竟性は虚空のようであります。このような譬喩について、私たちはこのように認識すべきです。
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