衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年06月15日    木曜日     第1 回の開示 合計3961回の開示

衆生と涅槃の関係

衆生は常に涅槃の中にあるのか、それとも無余涅槃の後で初めて涅槃に戻るのか。この問題を明らかにするには、涅槃の意味を理解しなければなりません。仏教の術語の中には、後世の人々によって絶えず拡張・派生・発展されたものがあり、指し示す対象が次第に広範で集中力を欠き、意味が分散してきました。もし人々が法を論じる際に、同じ術語が指す対象を共有していなければ、各自が独自の主張を述べ合い、合意に至ることはできません。涅槃という語は主に、如来蔵の不生不滅・不来不去・不増不減という清浄性あるいは清浄な状態を指し、次に衆生の如来蔵本体を指します。後者の意味は後世に発展されたものです。

この問題において「涅槃に戻る」と述べられている場合、その涅槃は明らかに如来蔵本体を指しており、性質や状態を指すものではありません。無余涅槃の後には、自性清浄の本心である如来蔵のみが残り、五蘊のいかなる法も存在しません。それでは衆生は存在せず、衆生がいない以上、誰が涅槃に入るのでしょうか。誰が涅槃に戻るのでしょうか。涅槃に入る者もなく、涅槃に戻る者もいないのです。

涅槃は清浄法界を表し、自性清浄心を表します。不生不滅で形も相もなく、内も外もなく、寂静不動であり、衆生は涅槃から出ることも入ることもできません。衆生と涅槃の関係は、衆生の全体が即ち涅槃であるということであり、金器と金の関係のようなものです。金器の形は千差万別ですが、すべての金器は内から外まで金以外の何ものでもありません。金器が再び金の中に戻るという説は存在しません。衆生の五蘊身心のいかなる法も、清浄な涅槃心によって造られたものであり、その本質は全て清浄な涅槃です。再び涅槃に入るという説も、涅槃に戻るという説もないのです。

衆生は涅槃から離れたことが一度もなく、永遠に涅槃から離れることもできません。しかし無明によって常に涅槃の中にありながら自覚せず、虚妄にさまよい求め続け、妄りに生死輪廻の苦しみを受けています。したがって涅槃は戻る必要も入る必要もなく、衆生は無明に覆われているだけで、ただ認識していないのです。一旦認識すれば、即時に清浄となり、即時に寂静解脱し、再び生死と束縛はなく、至るところが金そのものであり、どうして金器に執着する必要がありましょうか。

金器はその金質によって貴ばれ、金はその器形によって用途が増減し、善悪の差異を生じます。金が装飾に用いられれば貧しい家も輝き、金が糞を容れる器となれば汚れを顕します。金が人命を救えば善業を築き、金が人を傷つければ悪業が明らかとなります。金を善用する者は仏であり、金を悪用する者は衆生です。仏と衆生は同じく金質でありながら、その用い方によって結果が異なるのです。


——生如法師の開示
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