衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年06月16日    金曜日     第1 回の開示 合計3962回の開示

逆境にどう向き合うべきか

問:良くない境界が来たとき(例えば悪口を言われるなど)、どのような対応が最も智慧のある方法でしょうか?懺悔するのか、それとも清浄心を保ち如如不動で、「凡そ所有の相は皆是れ虚妄」の原則に基づき境界を存在しないものとして争わず弁明しないのか。あるいはすべての衆生に代わってこの逆境を受け、すべての衆生が吉祥円満の善境界に遇えるよう願うのか。それとも他の方法、例えば念仏を称えるのか?

答:学仏の段階によって、逆境への対応方法は異なるべきです。また異なる逆境によっても対応方法は異なります。違いは、もし逆境が自己の無明煩悩と過去の業障によって引き起こされたものであれば、自らの過失を検証し、因縁果報を明らかにし、業障と無明を懺悔すべきです。自らに明らかに業障があり過失があるとき、如如不動でいるべきではなく、これらの境界を虚妄として無視することもできません。そうすれば無明を継続させ、愚痴を増長させるだけです。そしてあなたが遭遇する逆境は自己の問題であり、自らが承受すべきもので、衆生に代わって承受するものではありません。これは衆生とは関係ありません。過失がないときに無縁故に逆縁が加わった場合、自心の煩悩を降伏させるためには外境を空と観じ、境界に対し如如不動を保ち、全てを甘んじて受けながらも受け取るものがない状態になります。

自らの煩悩が重く智慧もないとき、逆境に遇ったら自心を反観し、無明煩悩を検証すべきです。その中の因果関係を明らかにし、もし自己の問題と判明したら速やかに懺悔して過ちを正すべきです。これによって智慧が増長し無明煩悩が軽減されます。この時逆境を空として扱うべきではなく、もし無知煩悩を空じ去ってしまえば、自らの無明煩悩を認識できず、智慧を増長させ煩悩を軽減することができず、学仏は実効を失います。智慧が深刻に不足しているとき、逆境を空と見做して見過ごすことも、境界に対し如如不動でいることもできません。なぜならこの時正に境界に愚痴しており、境界を明らかにしていないからです。この時に必要なのは空慧ではなく、因果関係を識達し、明確にすることで悪を断ち善を修めることです。例えば子供がまだ文字を覚えていないとき、文字を覚えることを空として努力せず、是非善悪を弁別できないときに是非善悪を空として弁別しないなら、愚痴を継続させるだけです。
大多数の人は世間及び出世間の理を明らかにせず、弁別力がなく、全ての行為規範と準則について曖昧模糊としており、初学の断悪修善の段階、明因識果の段階にあります。もし遭遇する全ての境界と法を空と見做して軽視し無視すれば、因果を明らかにできず、自らの無明煩悩を認識できず、一切の行為を修正できず、正思惟がなければ智慧を得られず、永遠に愚痴し続け、死後も三悪道で愚痴の果報を受け、特に畜生道での時間を延長します。多くの人が学仏を逆さまに修し、空すべきでないときに空じ、空すべきときに空じず、智慧が始終生じません。自心の誤った思想を修正するとき、決して空じてはならず、境界を軽々しく見過ごしてはなりません。自身と五蘊世間を認識していないとき、これらの法を正思惟し、法に対する明瞭な認知を得て、愚痴しないようにすべきです。

どのような状況で境界を空じ去れるのでしょうか?色声香味触に遇い、心に貪愛と執着が生じたとき、この時境界を空じ去れば貪愛を降伏させ、貪瞋痴の煩悩を制することができます。境界を真実の法と捉えて執取しようとするときこそ、境界を空じ去る方法を考えれば、空の法を執取せず、貪瞋痴の煩悩を降伏させられるのです。

——生如法師の開示
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