衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年06月04日    日曜日     第1開示 合計3956開示

精進して法を学ぶことは修行と算するのでしょうか?

金剛経云:法尚応舎、何況非法。法とは三蔵十二部の清浄なる妙理であり、理論と知識の範疇に属します。これらの理論知識は、実証の後に相応の無明を破除すれば、もはや用がなくなり、棄舎しなければなりません。もし心に留めておけば、心識を窒碍するばかりで、心空にして無碍となることができず、いたずらに法縛を増すだけです。たとえば薬で病を治したなら、その薬を捨て去るべきであり、さもなければ薬に執着することがかえって病となります。そして法に相対する非法とは無明、すなわち貪瞋痴の煩悩です。無明の範囲は極めて広く、誤ったもの、如理でないもの、生死を絶えさせない思想観念は、すべて無明です。これらの非法はなおさら捨て去らなければなりません。私たちの学仏修行の全過程は、絶えず無明を破除していく過程であり、無明が滅し尽くされて彼岸に至れば、もはや修行は必要なく、法理もまた空し尽くさなければなりません。

こうして法と非法の関係はきわめて明瞭になります。両者は薬と病の関係であり、対治するものと対治されるものの関係です。法は非法を対治するために用いられるものであり、非法への対治が済めば、法もまた捨てなければなりません。そうすれば心は空となり、清浄となり、常楽我浄となります。法は無明を対治するために用いられるものである以上、それは修行の一つの道具と方法であり、修行の対象は無明煩悩であって、法そのものではありません。法は理であり、無明煩悩は事です。事は身口意行に現れ、身口意行もまた事であり、善・悪・不善不悪の三種に分けられ、悪が滅すれば心は純善と清浄へと変わります。ならば、理をもって事を破り、事を円融し、種々の事行・事相を円満させることこそ、修行の最初にして最後の標的であり宗旨なのです。

最後には、心中の法は必ず消除されなければなりませんが、事行もまた消除されるのでしょうか。無明煩悩の事行は必ず消除されなければなりません。無明煩悩を消除したのちには、身口意行は徹底的に清浄となり、染汚がなくなり、これによって種々の事行が円満され、無上仏道が成就されます。しかし諸仏の成道は無余涅槃に入るものではなく、無住処涅槃においては、円満清浄なる事行が常に現起するのです。諸仏は因地において無量の衆生を広く度すべく発願しており、成仏の後には因地で発した種々の清浄なる大願を円満に実現しなければならないので、事行は断つことも滅することもできず、衆生を度し尽くすまで続くのです。

こうして明らかになりますが、智慧があって事理を円融でき、種々の事行を円満できることこそが真の修行であり、誇りとし人に示すべきものは、無明のない清浄なる身口意行であって、何の法を学んだか、どれほどの法を学んだかではありません。したがって、方法や道具を人に示す必要はなく、結果が重要なのです。結果を人に示すことによってこそ、人を激励し、教え、導き、無明を破除する成仏の道へと歩ませることができます。健康な身体の人のように、健康な身体を人に示せばそれでよく、自分が癌を治す薬や白血病を治す薬を持っていると到る所で宣伝する必要はなく、病のないことこそが誇りとなるのです。法をもって非法を対治し、その应有の作用を果たし、無明を消除し、貪瞋痴の煩悩を去り、我執・法執の二執を滅すること、これこそが根本です。もし作用が起きなければ、念仏もまた非法であり、作用が起きるならば、外道の非法もまた法なのです。

現在、一部の人は理論は理論、事は事で、両者に関係がありません。それでは修行とは一体何を修めているのでしょうか。多くの人は、学仏とは理論知識を学ぶことであり、仏法をより多く理解することだと思っていますが、仏法を理解することが何のためなのかを知らず、修行の目標と方向が何であるかを知りません。もし学仏が単に理論知識を身につけるためだけならば、学富五車となり仏学博士になったとしても、なお無明の衆生であり、一丝毫たりとも解脱できません。理論知識は衆生を成仏させることはできず、理に執して事を廃すれば、かえって法執となり、法に縛られることで生死をますます増します。このような学法は愚痴の行であり、修行とは言えません。理論は事に奉仕するためのものであり、事が円満すれば、理論はもはや用がなく、捨て去るべきものです。どこに、智慧ある人が一日中理論を抱えて事を顧みず、本末転倒するような人がいるでしょうか。

人は事において解脱するのであって、理論において解脱するのではありません。ある人たちは実に顛倒していて、理論を高く掲げながら大いに悪業を造り、理論が手の中にあるのだから目的は達成されたとし、事行を顧みません。しかし実際には、有用なのは事であり、円満させるべきは事であり、事が円満してこそ仏なのです。事を円融よく成し遂げるためにこそ、理論を学び、理論をもって事行を導き、事行を変え、事行を円満させるのです。もしそのためでなければ、三蔵十二部の中に頭を埋めて孜孜として求めるとは、何のためでしょうか。学ぶために学ぶのは、無用の功ではありませんか。いくらかの法を学んだだけで群生を傲って見下す人たちは、なんと愚痴で顛倒していることでしょうか。学んだことが貪瞋痴を軽減することなく、かえって無明を増やすならば、学ばないほうがましであり、学べば学ぶほどただの禍害となり、衆生に仏法を、仏教を誤解させることは、大いなる悪業を造っているのです。まとめて言えば、事行を円融できない学法は、いかに精進しても修行とは言えないのです。

——生如法師の開示
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