金剛経に云う、「法すら尚お捨つべきである、いわんや非法においてをや」。法とは三蔵十二部の清浄なる妙理であり、理論と知識の範疇に属する。これらの理論的知識は実証した後、対応する無明を破れば用済みとなり、捨て去るべきである。もし心に留めておけば、心識を阻害し、心を空しく無礙ならしめず、徒らに法縛を増すのみ。例えるなら薬で病を治したなら、薬を捨て去るべきであり、さもなくば薬に執着して却って病となる。法に対する非法とは無明、貪瞋痴の煩悩である。無明の範囲は極めて広く、凡そ誤った、理に適わぬ、生死を絶えざらしめる思想観念は全て無明である。これらの非法は更に捨て去らねばならない。我々の仏道修行の全過程は、絶えず無明を破る過程であり、無明が滅尽し彼岸に至れば、もはや修行を要せず、法理も空尽する。
かくして法と非法の関係は明らかである。両者は薬と病の関係、対治するものと対治されるものの関係である。法は非法を対治するために用い、非法の対治が無くなれば法も捨て去る。これにより心は空となり清浄となり、常楽我淨となる。法が無明を対治するためにあるなら、それは修行の一つの道具と方法であり、修行の対象は無明煩悩であって法自体ではない。法は理、無明煩悩は事である。事は身口意行に現れ、身口意行もまた事に属し、善・悪・不善不悪の三種に分かれる。悪が滅すれば心は純粋な善と清浄となる。理をもって事を破り、事を円融し、種々の事行と事相を円満することこそ、修行の最初にして最後の目標と宗旨である。
最終的に心中の法は必ず消滅すべきだが、事行もまた消滅するか。無明煩悩の事行は必ず消滅すべきである。無明煩悩を消滅させた後、身口意行は徹底的に清浄となり染汚なく、かくして種々の事行を円満し無上仏道を成就する。しかし諸仏が成道する時、無余涅槃に入らず、無住処涅槃において円満清浄の事行は常に現起すべきである。諸仏が因位において無量の衆生を広く度すべく発願した故、成仏後は因位にて発した種々の清浄なる大願を円満に実現せねばならず、故に事行は断絶せず滅尽せず、衆生を度し尽くすまで続く。
かく明らかとなる。智慧ある者は理と事を円融し、種々の事行を円満できてこそ真の修行である。誇りとすべきは無明なき清浄の身口意行であって、学んだ法の多少ではない。故に方法と用具を人に示す必要なく、結果こそ重要である。結果を示して初めて人を激励し、教導し、無明を破る成仏の道へ導ける。健康体を人に示せば足り、抗癌剤や白血病治療薬を宣伝する必要なきが如し。無病こそ誇るべきである。法をもって非法を対治し、応有の作用を発揮し、無明を消滅させ、貪瞋痴の煩悩を除き、我執法執を滅し去ることこそ根本である。もし作用なきなら念仏も非法となり、作用あらしむるなら外道の非法も法となる。
今一部の人々は理論は理論、事は事で、両者に関係なしとする。では修行とは何を修するのか。多くの者は仏法を学ぶとは理論的知識を学び、より多く仏法を知ることだと考える。しかし仏法を知る目的が何か、修行の目標と方向が何かを知らない。もし仏法を学ぶことが単に理論的知識の習得なら、五車の学あれど仏教学博士となろうとも、依然として無明の衆生であり、毫末も解脱せず。理論的知識は衆生を仏と成らしめず、理に執着し事を廃すれば却って法執となり、法に縛られ更に生死を増す。かかる学法は愚痴行であり、修行とは称されない。理論は事に奉仕するもの、事が円満すれば理論は用済みで捨て去るべきである。智慧ある者が終日理論を抱え事を顧みぬなど本末転倒も甚だしい。
人は事の上で解脱するのであって、理論上で解脱するのではない。ある者は真に顛倒し、理論を高く掲げつつ大いに悪業を造り、理論を手中にすれば目的達成とし事行を顧みない。実際に有用なのは事であり、円満すべきは事である。事が円満してこそ仏となる。事を円融よく為すために理論を学び、理論をもって事行を指導し、事行を改め、事行を円満させる。この為でなければ、三蔵十二部に埋没し孜々として求めるのは何の為か。学ぶ為の学びは無用の業ではないか。少し法を学びて衆生を傲視する者、何と愚痴に満ちた顛倒か。学びても貪瞋痴を軽減せず、却って無明を増すなら、学ばざるに如かず。学びて学びて却って禍害となり、衆生に仏法と仏教を誤解させれば、大いなる悪業を造ることに他ならない。総じて、事行を円融できぬ学法は、如何に精進しても修行とは称されない。
27
+1