衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年05月26日    金曜日     第2 回の開示 合計3947回の開示

如来蔵は我にあらず、また我ならざるにもあらず

如来蔵は我にあらず、我ならざるにもあらず。すなわち我でありながら我ではない。この理は甚深にしてまた甚深なり。仏地に至らざる如来蔵には七識の染汚種子を含み、種子の縁に随って染汚の業を生ぜざるを得ず、よって如来蔵の清浄なる徳行は遮障され、如来蔵本体の徳能と光輝を完全に発揮することができず、この時の如来蔵は常楽我淨ならず、如来蔵の完全なる自体光明を現出せしめない。ただ常楽我淨なる仏地の如来蔵のみが七識の染汚による遮障を受けず、完全に自体の光明を発揮し得て、真実の我、不変異の我、影響と遮障を受けざる我となる。例えば衆生の七識に三悪道の業あれば、如来蔵は縁に随って三悪道を変現せざるを得ず、この時は如来の尊容と清淨なる仏国土を現出できず、機能は阻害され、我性は発揮され得ない。

五蘊は苦空無常無我なり。如来蔵が生じる一切の法は生滅変異するもの、久しく常住せず、執取すべからず、また執取され得ざるものなり。しかるに衆生の如来蔵は苦空無常変異するものにあらず、その心には我なく、我の存在を認めず、作主たる我性を具えず、心体にはなお生滅変異する染汚業種を含むが故に、如来蔵は常楽我淨にあらず。仏地の如来蔵たる無垢識において染汚業種が滅除され、種子が再び生滅変異することなきに至って、初めて真実の我性を具え、真実の我となる。

——生如法師の開示
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如来蔵には無明も無く、無明尽きることも無し

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