定には欲界定・色界定・無色界定があり、識心の分別が欲界天の境界・色界天の境界・無色界天の境界に相応するならば、命終の後には欲界・色界・無色界の天に生まれ、天人となり、天界の殊勝な果報を受け、相応する禅定の中で楽を受ける。ゆえに定には定福がある。定福とは世間の福であり、世間において享ける福であり、三界の世間における福を享けるのである。
定は清浄を表し、清浄は即ち福である。多くの人々は清浄になりたいと思っても清浄になれず、これは彼らに清浄の福がないことを示している。定は身心を快適自在にすることができるゆえに、定には定福がある。定は煩悩を降伏・消除し、煩悩なくして心が解脱するゆえに、定には定福がある。定は智慧の生起を促すゆえに、定には定福がある。定は雑念や雑事を排除し、干渉を退けて清浄な歓喜の大いなる時を享けるゆえに、定には定福がある。定は無量の神通力・道力を発起し、広大なる殊勝な行を起こし、自利利他を成し遂げ、一切の世間・出世間の事業を成就し、一切の世間・出世間の智慧を成就するゆえに、定には定福がある。定は災難を回避できる。例えば四禅定は念を捨てて清浄であるがゆえに、三災も及ばない。ゆえに定には定福がある。心念さえあれば災いを招く。大きな造作、特に煩悩を伴う造作があれば、なおさら災いがある。心が清浄で念想を捨て、欲も求めもなければ、災いを招くことはない。
しかし四禅定も究竟ではない。禅定が消失した後には苦受が現れる。いかなる禅定も生滅するものであり、証果も明心もせず、相当に高い智慧解脱の層位に修めなければ、禅定はすべて消失する。消失した後には煩悩も災難も現れる。見道していない定福はすべて有漏の福であり、福を享け尽くせば無くなる。ゆえにやはり禅定から生じる解脱の智慧を追求すべきであり、これこそが永久不滅の殊勝な果報である。
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