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日常法話

2023年05月10日    水曜日     第1開示 合計3935開示

菩薩心空不住不習五蘊

大般若経原文:诸菩萨摩诃萨。行深般若波罗蜜多时。若于色不住不习。是为住习色。若于受想行识。不住不习。是为住习。受想行识。广说乃至。若于十八佛不共法。不住不习。是为住习。十八佛不共法。何以故。懦尸迦。诸菩萨摩诃萨。行深般若波罗蜜多时。于色不得。可住可习。于受想行识不得。可住可习。广说乃至。于十八佛不共法不得。可住可习故。

解釈:諸菩薩摩訶薩は、深い般若波羅蜜多を修行する時に、もし色蘊に対して心が住着せず、また熏習しないならば、これが色蘊に対する熏習の中に住することであり、これが正しい熏習です。住着することが不正の熏習であり、色蘊の上に貪執を生じることに住することだからです。菩薩たちがもし受想行識蘊に対して、心が住着せず、また熏習しないならば、これが受想行識蘊に対する熏習の中に住することであり、住しないことが正しい熏習で、住着することが不正の熏習です。広く言えば、もし十八仏不共法に対して住着せず、また熏習しないならば、これが十八仏不共法に対する熏習の中に住することであり、住しないことが正しい熏習で、住着することが不正の熏習なのです。

なぜこのように言うのでしょうか。憍尸迦よ、諸菩薩摩訶薩は、深い般若波羅蜜多を修行する時に、心は色蘊は得るところがないという義理に住すべきであり、常に色蘊は得るところがないという義理を熏習すべきです。心は受想行識蘊は得るところがないという義理に住すべきであり、常に受想行識蘊は得るところがないという義理を熏習すべきです。広く言えば、心は十八仏不共法は得るところがないという義理に住すべきであり、常に十八仏不共法は得るところがないという義理を熏習すべきなのです。

ここでの要点は「住」と「習」の二つの字です。この二つの字の内包をはっきり理解すれば、この経文の一段を理解することができます。住とは、心が色受想行識の中に陥ること、心が色受想行識の中に入ること、心が色受想行識に着すること、心が色受想行識を愛着すること、心が色受想行識に執すること、心が色受想行識を取着することです。習とは、心が色受想行識に触れること、色受想行識を熏習すること、心が色受想行識の上を行くこと、心が色受想行識に着すること、心が色受想行識を用いることです。

これは凡夫の心行であり、色受想行識に対する執取と貪着であり、色受想行識の真の姿を見定めることができず、色受想行識に迷わされるため、心は颠倒して色受想行識の上を行くのです。般若波羅蜜多を修行する菩薩は、色受想行識が空であることを照見すると、色受想行識の中を行くにおいて、住せず着せず執せず取らず貪らず愛せず、心空として地地に色受想行識の中を行き、色受想行識において颠倒して行くことなく、また阿羅漢のように色受想行識を滅除することもありません。

五蘊の用はどのような面に現れるのでしょうか。五蘊の用は、すべての身口意行の上に現れます。色受想行識の用から、凡夫と聖者を区別することができます。凡夫と聖者の身口意にはどのような差別があるのでしょうか。身口意行から、一人の修為を見分けることができます。心が空である人の身口意行と、心が空でない人の身口意行にはどのような差別があるのでしょうか。法を証した人の身口意と、まだ道を得ていない人の身口意にはどのような差別があるのでしょうか。差別は多くて大きいのですが、自らの心が空になっておらず、変わっていない人は、見分けることが非常に難しいのです。というのは、認知は自分の経験と知識の外へ飛び出すことが難しく、局限性が非常に大きいからです。

——生如法師の開示
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