衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年04月11日    火曜日     第1 回の開示 合計3916回の開示

『楞厳咒を用いた禅定の修得と法義参究の方法』

楞厳呪を暗誦することが比較的熟達し、暗誦中に次第に佳境に入り、禅定が静かに生起するようになった後、さらに暗誦を続けることがやや困難に感じられる段階に至ったならば、ただ「南無」の「南」の一字に意識を集中させるべきである。後の文字は現れず、心を「南」の字に定着させて動かさず、専一にさらに専一を重ね、雑念や妄想を排する。心が安定した後は疑情を起こし、この「南」の字がどこから来たのか、どこから生じたのか、今この瞬間どこにあるのかを疑い、言語文字や音声を離れつつも疑い続け、意識的な思考や推論を働かせず、疑情を深く意根の心に懸けておく。この修行が熟達したならば、次に自ら探究すべき法義に転じる。あるいは色蘊の我を疑い、あるいは受想行識の我を疑い、あるいは死屍を引きずる者は誰かと疑う。これがつまり公案参究である。

どのような疑情を選択するかは、自らの根機と現在の修行段階によって定めるべきである。大多数の者は大乗の根機が十分でなく、福徳などがまだ修められておらず、菩提の大願が発起していないため、もし大乗法の公案を選んで明心見性を求めようとしても、効果が得られず時間を浪費する恐れがある。むしろ小乗の基礎を堅固に築き、小乗法において観行思惟を深め、暫く大乗を考慮せず、まして深遠な唯識に精力を費やすべきではない。人生は無常である。トウモロコシ畑で空腹を抱え彷徨い続ける必要はなく、急いで一穂のトウモロコシを取って家で食べ、腹を満たしてから再び歩き回れば遅くはない。

我見を断じていない者でも、小乗の基盤が比較的固く、五蘊無我を充分に認識し、大乗菩提心と清浄な大願を発起し、衆生を利楽する菩薩心が強い場合には、禅参究を選択できる。参禅の過程において次第に五蘊の束縛から遠離し、五蘊を我とする邪見を断除し、明心見道前に証果を得るか、あるいは明心見道の刹那に証果を得て、大小乗を同時に突破することが可能である。ただし同時突破の可能性は低く、多くは先に証果を得て、しばらく経てから明心見道に至る。現世で見道できる者は、大乗小乗を問わず、前世の根機が深く、善根福徳が大きく、見道に近い者であるが、そのような者は極めて稀である。ゆえに安易に自分が証果を得た・悟りを開いたなどと誤解すべきではない。そのような容易なことではない。

要するに、楞厳呪を契機と入門として正道に速やかに乗ることは、禅定と智慧、戒律、あるいは業障消除の面において、修行が非常に迅速に進む。その理由は加持力が極めて大きいためである。我々の修行は自力に依ると同時に、仏菩薩と護法神の力を借り、二つの力を合わせて用いることで順調に進む。力あるものは借り、光あるものも借りるべきである。借りたものは必ず返すことを念頭に置き、自らが衆生を助け光明を与えられる段階に至った時、決して吝嗇してはならない。もし吝嗇心を持ち衆生を顧みないなら、仏菩薩の力は必ず加持されず、自らも何も得ることはできない。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

八十二ヶ条の修行体得

次の記事 次の記事

意根の煩悩心所有法

ページのトップへ戻る