楞厳呪が比較的滑らかに暗誦できるようになり、唱えるうちに次第に佳境に入り、禅定がひそかに生じ始めたら、無理に暗誦を続ける必要はない。この時はただ「南無」の「南」の一字だけを引き出し、後の字は出さず、心を「南」の字に定めて動かさず、ひたすら集中を重ね、雑念や妄想を交えずにいる。心が安定した後は疑念を起こし、この「南」という字がどこから来たのか、どこから生じたのか、今この瞬間どこにあるのかを疑い続ける。言葉や文字、音声はなくとも、ただ疑念を抱き続け、意識的な思考や推論を弄さず、疑念を深く意根の心に懸けておく。この修行が熟達したならば、次に探究したい法義に切り替える。あるいは色蘊としての「我」を疑い、あるいは受想行識としての「我」を疑い、あるいは死屍を引きずっているのは誰かと疑う。これがすなわち公案に参ずる(参話頭)ということである。
どのような疑念を選ぶかは、自らの根基と現在の修行の状況によって定めるべきである。多くの人は大乗の根基が十分に厚くなく、福徳などがまだ修まっておらず、菩提の大願も起こしていない。もし大乗の法による参話頭を選び、明心見性を求めようとしても、おそらく効果はなく、時間の無駄になる可能性がある。むしろ誠実に小乗の基礎を固め、小乗の法において観行思惟を重ね、当面は大乗を考慮せず、ましてや深遠な唯識に精力を注ぐべきではない。人生は無常である。トウモロコシ畑で空腹のままうろうろするのはやめ、急いで一穂のトウモロコシをもぎ取って家に帰り腹を満たすことだ。腹が満ちてからまたぶらついても遅くはない。
ある人は我見を断っていなくとも、小乗の根基が比較的固く、すでに五蘊が無我であることを十分に認識し、大乗の菩提心と清浄なる大願を起こし、衆生を利楽する菩薩の心が比較的重い。このような場合は参禅を選ぶことができる。参禅の過程において、次第に五蘊の束縛から遠ざかり、五蘊を我とする邪見を断除し、明心見道の前に先に証果を得るか、あるいは明心見道の刹那に証果を得て、大小乗を同時に突破することが可能である。しかし同時突破の可能性は小さく、往々にして先に証果を得て、しばらく経ってから明心見道に至る。現生で見道できる者は、大乗であれ小乗であれ、すべて前世の根基が比較的厚い人であり、善根福徳が大きく、見道までの距離が近い。だがこのような人は極めて稀である。だから皆さんは安易に自分が証果した、悟りを開いたなどと誤解してはならない。それほど容易なことではないのだ。
要するに、楞厳呪を契機とし入門の手掛かりとして、正道に速やかに乗ることができる。禅定と智慧においても、戒律の面においても、あるいは業障を消除する面においても、修行は非常に速やかである。その理由は加持力が非常に大きいからだ。我々の修行は自力に頼る一方で、仏菩薩や護法神の力も借り、二つの力を合わせて用いることで修行は順調に進む。力があれば借り、光があればそれも借りる。借りたものは必ず返すことを考え、自らが衆生を助け光明を与えられる時には、決して吝かってはならない。もし吝嗇の心があり、自分だけを顧みて衆生を顧みないならば、仏菩薩の力は決して加持されず、自らも何も得ることはできない。
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