問:もし恨みの情緒が歯噛みするほど深刻な状態に至った場合、それは意根の深い怨恨であり、意根の反応であると言えますが、意根には恨みという小随煩悩が存在するのでしょうか。
答:意根は主導する識であり、身・口・意の行為は意根が主導し指揮します。歯噛みする身体の活動は意根が支配し指揮して作り出したもので、意識がどのような心思や考え、情緒を持とうとも、身体に歯噛みの現象を引き起こすよう指揮支配することはできません。意根を正常な識心と捉えれば、意根のすべての心の活動を理解しやすく、誤解も生じなくなります。
意根は五陰身の主人であり、常に五陰身の一切の身口意の行為を主宰しています。私たちの修行とはまさに意根を修め、意根を変革することです。意根が三度識を転じて智となれば仏となります。もし意根に無明煩悩が存在しなければ、修行はただ意識を修めるだけで良く、意根を気にかける必要はありません。しかし実際の修行は非常に困難であり、決してそんなに簡単で迅速なものではありません。自己を変えるのは困難で、長期にわたる熏習、不断の内省、縁に触れて境に対し自己を降伏させることを経て、ようやく少しずつ進歩できるのです。意根の無明煩悩は極めて多く深く、降伏し断除することが容易でないため、修行は困難に感じられるのです。
十二因縁は意根の無明が引き金となり、その後無量の生死輪廻の苦をもたらすことから、意根が一切の無明煩悩を具足していることが分かります。もし意根に無明煩悩がなく、ただ意識だけにあるなら、無始劫以来の生死輪廻の苦は存在しなかったはずです。意識の無明煩悩は比較的解決しやすいものだからです。ではさらに思考を深めましょう。意識の無明煩悩はどこから来るのでしょうか。
私たちが通常「我」と呼ぶものは、まさに意根を指しています。「私」と言う時、それは意根の思想観念が現れているのです。根深く染みついた習気の深い「私」という思想観念、それが意根です。したがって意根を観察しようとするなら、自らの起心动念と習気の慣性を観察すれば良いのです。私とは意根であり、意根を観察するとは私を観察することです。この角度から努力すれば困難ではありません。内心の奥深くで発見し観察しがたい思想観念はすべて意根のものです。根深く骨の髄まで染み込んだ習気煩悩と智慧、これらはすべて意根のもので、非常に隠微で認識し難く改め難いものです。意識の思想観念は表面に浮かんでおり、熏染されやすく、発見しやすく、降伏しやすく、変化しやすいものです。もし意根の修行に関わらないなら、仏法を学ぶことは楽しく愉快なものとなり、成仏も迅速に達成できるでしょう。
意根が五蘊の中で果たすすべての機能作用は観察可能です。事実が何であり、真理が何であるかを知って初めて、意根に何があり何がないかを語ることができ、確かな根拠を持って断言できるのです。そうでなければ仏の教えに従うべきです。「汝の意を信ずるなかれ」と。自己の判断は現量観察の智慧に厳しく制約されます。智慧が不足して観察できない時は、努力して修行に励み、一日も早く如実観察と現量観察ができるようになり、真実の智慧・如実の智慧・現量の智慧を獲得すべきです。それ以前の段階では、疑いはあくまで疑いであり、如実の結論を下せない以上、結論を急ぐべきではありません。仏法修行はこのような態度を堅持して初めて、誤った評価や判断の過ちを犯さないのです。
法を貫通させ連続的に理解すれば、法義を整理整頓できます。いかなる法も孤立して存在するものではなく、すべて主体と主線によって結ばれています。全体から諸法の内包を把握すれば、理解し掌握しやすくなります。仏法修行は何らかの法則を暗記することではなく、理論と実践を結びつけることです。実際に観察し、遭遇する理論が理に適い法に叶っているか、実際と合致するかを検証しなければなりません。五蘊の作用において観察し、身口意において観察し、実践を通じて真知を獲得すべきです。実践は真理を検証する唯一の基準であり、仏法も世俗法も同様です。仏法を学ぶとは真理を追求することであり、真理とは事実そのものです。誰も変えることのできない事実を依り所とし、真理を依り所とする、これこそ仏が教える「法に依る」ことであり、そうして初めて成就を収め、誤謬を避けられるのです。
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