衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年04月14日    金曜日     第2 回の開示 合計3918回の開示

十二因縁の観点から見る意根の心所法

十二因縁において説かれる無明縁行、行縁識、識縁名色という三つの段階は、衆生の生老病死の苦しみがすべて意根の無明によって引き起こされることを明らかに示している。意根の無明によって、衆生は善悪の業と六道輪廻を持つに至り、したがって意根の無明は一切の煩悩を含み、一切の煩悩心所法を具えている。衆生は一切の煩悩を持つがゆえに分段生死と変易生死があり、しかし意根の無明が完全に断たれるやいなや、衆生は仏となり、この時意根は一切の善心所法を具足し、かつ恒常的に意根の運行に伴うようになる。以前は恒常的ではなく、特に凡夫の段階では、意根の運行に伴うことは稀であった。

要約すれば、意根は意識に劣らず一切の心所法を具足している。もし意根が一切の煩悩心所法を具足していなければ、心はそれほど染まらず、生死の業を造作することも少なく、苦受も少ないはずである。しかし衆生は無量劫以来、一切の生死の苦を具足し、一切の生死の業を造作してきた。これは意根が一切の煩悩心所法を具足していることを示している。もし意根が一切の善心所法を具足していなければ、心は完全に清浄とはならず、仏となることはできない。しかし一切衆生は最終的に必ず仏となるため、意根は一切の善心所法を具足しているのである。ただしこれらの善悪の心所法は恒常的に意根の運行に伴うものではない。凡夫衆生の意根には、我見・我慢・我執・我痴という四つの根本煩悩のみが絶え間なく伴い、一瞬も離れることがない。これら四つの根本煩悩が生死の業と苦の根源であり、これら四つの根本煩悩から他の煩悩が時々現れては消えるのである。

もし我見の煩悩が断たれれば、他の三つの根本煩悩も次第に断じられ、四つの根本煩悩が断たれるや、他の一切の煩悩もすべて断じられ、分段生死は終了する。したがって衆生が我見を断じた後、我見の煩悩は恒常的にも断続的にも意根に伴わなくなる。我執・我慢の煩悩が断尽されれば、これらは恒常的にも断続的にも意根に伴わず、永遠に意根に伴わなくなる。我痴の煩悩も同様で、一旦断尽されれば意根の現行する煩悩は尽き、命終すれば三界を出離し、無余涅槃に入ることができる。

凡夫衆生の意根の善心所法は具足せず、恒常的に伴うこともなく、時々現れては消える。しかし一旦意根が煩悩心所法を断除すれば、善心所法は次第に具足され、恒常的に意根の運行に伴うようになる。これが聖人の心の働きであり、もはや凡夫の心の働きではない。要約すれば、凡夫衆生の意根には四つの根本煩悩のみが恒常的に伴い、他の煩悩は時々現れては消える。瑜伽師地論もこのように論じている。凡夫衆生の意根の善心所法も時々現れては消えるが、煩悩を断じて聖人となれば、善心所法は常に意根に伴い、最終的には恒常的に伴うようになる。

ここ数十年、多くの人々が意根の心所法を大きく誤解してきた。その原因は定慧が著しく不足し、現前に意根の心の働きを観察できず、理解力も弱く、菩薩の論述を誤解したことにある。この誤解は今日まで続いている。各大菩薩の定慧のレベルはまちまちで高低があるため、菩薩の論述には矛盾が生じることも避け難い。このような場合には、最も深い智慧を持つ弥勒菩薩の論述を主とすべきである。もし仏経による裏付けがあれば、仏経を主とすべきである。仏経による裏付けがなければ、真実の証量を基準とし、事実を基準とすべきである。なぜなら事実は畢竟雄弁に勝るからである。

——生如法師の開示
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