まず「証」の体験についてお話しします。証とは一つのことに集中している時、突然心に衝撃が走り結論を得る瞬間です。身心が空っぽになり、一瞬世間を見る目が変わります。しかしこの結論は未完成で細部まで明確ではなく、心も完全には確信できません。熱いうちに鉄を打つように、段階を追って深く観察を重ね、長期間継続することで次第に全体像が見え、完全に疑いのない結論へと固まります。この過程には精進と禅定が関わり、忍耐力と修練が欠けると観察を完遂できません。往々にして揺れ動く中、継続の原動力は発心に依拠します。
一般に観察対象が多いと、定力不足で全てを観破できません。「二羽の鳥が林にいるより一羽の鳥を手にする方が良い」と言うように、一つの観察を全プロセス完遂することで次第に方法を体得し、次の課題へ進むべきです。焦りは禁物です。
日常で定力を養い、常に内観しましょう。食事や歩行、作業時に心を一処に集める訓練を重ねると、次第に無口になり、自分が他人より大きく劣ると自覚します。実修の成果がないため、空虚な法義談義を好まず、誇大妄言で経典の言葉を羅列するだけで実修経験のない人々に反感を覚え、彼らが自他を誤っていると感じます。
内観を続けると、自己を照らし合わせて他人の心理変化を以前より明確に理解できるようになります。他人の欠点を自らの欠如のように見て常に慚愧を覚え、他者への怨みが自己の習性への不満に転化します。人間関係は改善しますが、相手への過度な好意・悪意を考える意欲は薄れます。
日々精進すると、世俗への興味は激減します。深い習性以外は行動意欲が湧かず、偶にするもすぐ興味を失います。むしろ内心の世俗への反応を観察することが日常化しますが、内観の多くは慚愧すべき習気を露呈し、改革の道遠きを痛感します。
評:この体得は実修過程の真実の経験です。最初に述べた「証」の感覚は最終段階ではなく、証に至る過程の三昧境界でしょう。定と慧の浅深ある状態で、真の三昧は定慧等持の境地です。身心の覚受が強烈で持続し、行住坐臥が定中にあり、煩悩は微細化して感知困難となります。詳細は語り過ぎぬよう注意が必要です。
観行は一つの問題、一つの疑情に専念すべきです。複数では散乱し、真の観行になりません。真剣に観行すると人格が変化し、周囲からは融通の利かない人物と見られますが、真の修行者は俗世を超越し、内外に変化を生じます。
修行が進むと定慧が増し、自慢話を好まなくなります。微細な心の動きで他者の心理を看破し、物事の真相を見通せるようになります。世間法への執着は薄れ、看破したものは即座に捨てられます。真の修行は自己を根本から変革し、あらゆる面で従前との差異を生み出します。
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