衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年04月08日    土曜日     第1 回の開示 合計3914回の開示

意根における二種の煩悩心所法

意根の煩悩心所法は二種類に分けられます。一つは意根に恒常的に随伴し、一瞬たりとも途切れることなく現行する煩悩心所法であり、『瑜伽師地論』に説かれる我見・我慢・我愛・無明(我痴)がこれに当たります。もう一つは意根に恒常的に随伴しない煩悩心所法で、これら四煩悩以外の心所法を指し、大中小随煩悩としての瞋恚怒りなどが該当します。もしこれらの煩悩が恒常的に現行するならば、衆生の自他の身心は深刻な損傷を受け、生活は混乱し、寿命も長く続かなくなります。ただ我見・我愛・我執・我慢の煩悩こそが凡夫衆生に恒常的に現行する煩悩なのです。

すべての人々が深遠な法義に出会う時、現前に観行することはできず、表面的な意味をわずかに理解するのみであるため、ひたすら経典を暗誦するほかありません。十二因縁の法は、衆生が六道において生死輪廻を繰り返してやまない原因が意根の無明にあることを示しています。もし意根に無明がなければ、十二因縁は尽き、衆生の煩悩は尽き、生死から解脱するのです。無明が行を縁じ、行が識を縁じます。この七文字を充分に理解すれば、意根に瞋恚が存在するか否かが明らかになります。もし意根の無明に瞋恚が含まれなければ、六識に瞋業を造作させることもなく、生死業はほぼ半減します。意識に瞋恚があっても問題ありません。なぜなら意識は瞋業を造作する決定力を持たず、したがって瞋業の種子も生じず、瞋恚による生死業も存在しないからです。

さらに言えば、意識の瞋恚はどこから来るのでしょうか。どのように出現するのでしょうか。多くの人々は意根に瞋恚があるかどうかを現前に観察することも、意根と意識の論理的弁証関係を整理することも、六識の身口意行の由来を知ることもできず、ただ経典を暗誦するのみで、自分たちの浅薄な理解が正しいと思い込んでいます。『楞厳経』に説かれるように、衆生の生命の最初期には意根と阿頼耶識のみが存在し、意根が念を起こした後に初めて天地万物と五陰六識が生じます。もし意根に瞋恚がなければ、意識の瞋恚はどこから来るのでしょうか。瞋業はどのように出現するのでしょうか。衆生同士が争い戦うのは何故でしょうか。どのようにして生じるのでしょうか。

意識の煩悩は容易に降伏・断除できます。理論を理解し、明らかにするだけで煩悩を効果的に制御できます。しかし意根が煩悩を断たない限り、根本問題に直面した際、意識が油断すれば直ちに煩悩が現れ、人は本性を現します。例えば夢中や酔った時、意識が弱まれば理性を失い、意根の煩悩が全て表出します。酩酊時の瞋心や瞋行が果たして意識のものでしょうか。なぜ酒後は悪業を造りやすいのでしょうか。なぜ酔えば本性を現すのでしょうか。なぜ酒が人柄を映し出すのでしょうか。

煩悩を降伏させるとは意識の煩悩を断つことですが、これはあくまで一時的なもので永続しません。もし意根の煩悩が断たれなければ、意識で断った煩悩も因縁が具足すれば再び生起し、根本的に制御できなくなります。よって瞋恚煩悩は第三果において初めて断尽されることから、意根の瞋恚煩悩は第三果で初めて断尽されると分かります。一方、意識の瞋恚煩悩は凡夫が理を明らかにする段階で断除可能ですが、究竟的ではなく特殊な縁に触れれば再び現れます。例えば普段は温和で怒り知らずの人でも、特殊状況で彼の限界に触れれば殺人に至る可能性があり、これは意根の瞋恚が現行した状態です。

——生如法師の開示
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