『楞厳経』において仏は、一切の法は自然に存在するものではなく、因縁和合によって現れるものでもなく、如来蔵の性質によって顕現されたものであると説かれています。例えば山の木々について、もし自然に存在するというならば、自然に滅びるはずであり、滅んだ後、再び生えてくるでしょうか? そうではありません。しかも多くの木々は人為的に植えられたものであり、人為的に植えられていない部分であっても、自然に存在するものではなく、地球の出現に伴って徐々に現れたものです。
では、木々は因縁和合によって存在するのでしょうか? そうでもありません。表面的には木々の出現は、人為的な植樹、水やりや灌漑、施肥、日光照射などの因縁和合によって生長したように見えますが、実際にはそうではなく、これらの因縁法は虚妄なるものであり、生滅変化するものであって、実質的な作用を持ちません。実質的な作用は如来蔵によるものであり、如来蔵が五大の種子(地・水・火・風・空)を和合させて形成したものです。五大の種子がなければ木々は存在せず、木々の細胞の微粒子さえも現れません。さらに、これら外在する因縁法そのものも、如来蔵の七大の種子(地・水・火・風・空・見・識)が和合して成るものであり、実体ある因縁法は存在しません。したがって木々は如来蔵の性質を具えており、衆生が木々を見るとき、それは如来蔵の見性・仏性の妙用であり、妙なる真如の性質そのものなのです。
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