衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2023年04月02日    日曜日     第1開示 合計3909開示

阿闍世王はなぜ地獄の業を消滅させ、極楽往生を遂げることができたのか

阿闍世王は父殺しの業障に覆われていたため、仏が直々に説法を授けたが、彼が得たのは無根の信心のみで、根本的な我見を断って初果を証得することはなかった。ただ預流向に留まり、この預流向の段階で三悪道の業を消滅させることができ、初歩的な解脱に近づいたため、極楽浄土に往生することが叶った。一般的に、仏陀が直々に説法を以て衆生を摂受する場合、業障が極めて重くなければ必ず聖果を証得するもので、初果から四果までのいずれにも到達し得る。しかし阿闍世王は証果を得られなかった。何しろ父殺しの業は軽くないが、この無根の信心を得たことは既に大変良く、預流向を得たことで地獄の業を消すのに十分であった。

阿闍世王は未来世において再び父親と出会った場合、業債を償うために一度殺害されることを免れないかもしれない。ただし、もし阿闍世王の前世に父親との怨業があったならば、今世の阿闍世王は前世の怨みを果たすことでこの怨業を清算したのであり、この業債は既に決着がついており、再び償う必要はない。実際、阿闍世王が父殺しを犯したのは、まさに父親と前世に怨業があったためであり、今世は怨みに報いるために生まれてきたのである。よって父殺しの業もそれほど重くはなく、仏陀の説法を聴聞するだけで消滅した。さらに彼の父親は聖果を証得し、死後は天界に昇ってからずっと阿闍世王に付き添い、自らの前世の罪過を悔い、絶えず阿闍世王を励まし加護した。そのため阿闍世王は心に慚愧の念を生じ、仏の説法に遇うことで父殺しの地獄業を消滅させたのである。

業を消滅させ得る仏陀の摂受力は非常に大きく、比類なきものである。業を消された阿闍世王には悔恨と慚愧の心があり、業障が極めて重いわけでもなく、また前世の因縁もあったため、結果として阿闍世王は地獄に堕ちる必要がなく、極楽浄土に往生したのである。もし仏陀が阿闍世王に説法しなかったならば、他の菩薩や阿羅漢、あるいは普通の人間が代わりに説法した場合、阿闍世王は必ずしも無根の信心を得て地獄業を滅除し、極楽浄土に往生することはなかっただろう。

業を消すことは智慧によってなされる。程度の異なる智慧がそれぞれ異なるレベルの業を消し、業が尽きれば仏となる。六道輪廻の業を消すことは、四果の阿羅漢や辟支仏が修行して到達する境地である。凡夫も業を消すが、それは浅いレベルの業に過ぎない。業の種類とレベルは多岐にわたり、個人の修行の程度に応じて異なるレベル・種類の業を消す。ただ様々な煩悩を断つことこそが真の消業であり、業が消えて再び造らなくなる。煩悩を断たなければ、一部の業は消えたとしても、後に因縁があれば再び造りかねない。道理を明らかにすることを求めず、ただ業を消すことだけを求める者がいる。至る所で仏菩薩に業を消してもらおうとし、消えた後また造る。このような消業は何の役にも立たない。道理を明らかにして心が変わってこそ、業が消えて現れなくなるのである。そして心を変えることは自分自身の問題であり、他人が手助けできることではない。

——生如法師の開示
前へ前へ

心が空であればあるほど、成就がある

次へ 次へ

根身器界とは何法か

ページトップへ戻る