凡夫が仏に成るまでの全過程は、一切法空を証得する過程であり、絶えず相を破り、見を破り、執着を破り、心を空じ、一切法を空じ去る過程です。心が空じていない状態で、法を実在と見なすことが無明です。一つの法を実在と見なすことが即ち無明であり、その法があなたを束縛し、障礙となり、解脱自在を得られません。仏に成るという法さえも実在と見なし、空でないと考えるなら、これも無明です。無明を全て破り尽くして初めて仏となります。仏に成りたいという心があれば、心はまだ空ではなく、妄想があるため、仏になることはできません。もちろん凡夫と三賢位の菩薩は依然として仏に成りたい心を持つべきであり、仏道を求めるべきです。これは自らの道業を堅固にする礎です。三賢位を過ぎ、法我見と法執を破る段階に至って初めて、漸次一切の妄想を破ることができます。心が空寂した後、一切の作為の心がなくなった時、無相・無願・無作となり、この時に真の大成就を得るのです。
須菩提は母胎中に心が空寂していたため、出生後に空生と名付けられました。仏陀に従って出家修道した後、心は更に空じ、有相の仏さえも心中から空じ去り、仏相に執着しませんでした。仏陀が天界で49日間説法をされ、天上から人間界に戻られた時、弟子たちは皆仏陀を迎えに行きましたが、須菩提だけは林の中で宴坐し、法身仏を念じ、有相の仏に執着せず、仏の説法の法会さえも生滅幻化であると知り、仏に会わず法会にも参加せず、寂然として禅坐していました。仏陀は讃嘆され「あなたは私を迎えに来なかったが、最初に私に会った弟子である」と述べました。この「私」とは法身の無相真仏を指し、有相の報化身仏ではありません。万法皆空であり、報化身仏も空です。一切の後天的に造作された有為法は全て空であり、仏が無量劫にわたって衆生を度した偉大な事業さえも空なのです。
八地菩薩以前は有為法の造作が多く、八地菩薩に至って心が空じ、三宝供養・衆生のため・仏教事業に携わる心さえも空じます。ただ無心のまま任運に一切の利生事業を行う時に初めて、仏は授記を与えて仏と成らしめます。心が空じず、有為の心で有為法を造作するなら、たとえ有為の心で三宝を供養し、これが大功徳大福徳であると思い、心中で法を取って空じないなら、仏は授記を与えません。菩薩が生生世世無量諸仏を供養し、自身の一切を捨てて供養し、三千大千世界の宝を尽くして供養しても、仏は授記を与えず、ましてや世俗の有為法を造作するなら、更に授記を得られません。しかしこれらの有為法を通じて福徳を増し、福徳が増すことで智慧が成長し、心が次第に空じ、最終的に福慧両足尊となります。故に「一切法皆空なら善法も修める必要はない」と言ってはなりません。善法を修めず福徳がなければ、空の智慧は現れず、心は更に空じ尽くすことができないのです。
福を修める時、心も可能な限り空じ、無所得の心行で福を修めるなら、その福は更に大きくなります。例えば衆生を度す時、「衆生を多く度せば功徳福徳が増す」と思ってはなりません。実際は衆生を度すことを通じて不断に福徳を増し、心空の功徳が現れ、心が次第に空じ、一定の程度に達した時、修行は成就します。福徳の多少を測る鍵は、衆生を度す過程で心がどの程度空じ、どの程度の無為に達したかです。心空無為こそが菩薩の智慧証量と果位を決定します。
故に外相に重きを置いてはなりません。相に転じ、相に執着するなら、一年に百冊の本を書こうと、一年で数十万の衆生を摂受しようと、数億を布施しようと、これらは全て有為法であり、中に明らかな我執と法執があり、相に執着して心が空じないなら、智慧証量と相応の菩薩果位を得られません。大福徳を具足した時初めて証悟し、如来蔵を証得した後、自らの種々の行(福行を含む)を観察すれば、これらの行が如何に生滅不実であり、如何に如来蔵の機能作用であるかを知り、実際の理地にはこれらの有為法相は存在せず、心は次第に空じ、修行の成就も更に大きくなります。
法執を破る道は非常に長く、初地菩薩から成仏まで、二大阿僧祇劫の修行において常に法執を破ります。これ以前の一大阿僧祇劫は我執を破るため、我見を断じ尽くす修行の道もまた長いのです。意根の無明は非常に深重で、執着性が大きく、意根の執着を破るにはまず意根の知見を破り、その思想を破る必要があります。即ち意根の我見を断じます。我見を断除した後、我執を漸次破り、更に意根の法我見と法執を破り、一切法を実在と見なす知見を少しずつ破り、最終的に無明が滅尽し、心が全て空じた時、仏となります。修行成就の大小は、無明がどの程度破られ、心がどの程度空じたかによります。心を空じ相を破るには必ず如来蔵を実証し、再び一切法の不実性を観察しなければなりません。
仏が父殺しの悪業を犯した阿闍世王の業を消したのは、空の理を用い、彼に理を明らかにさせ心を空じさせ、罪業を滅除させたのです。阿闍世王は父を殺した後、深く悔恨し、死後必ず地獄に堕ちると考え、心に苦悩を抱きました。なぜこのように苦しんだのでしょうか。父を実在と見なし、自分を実在と見なし、父殺しの行為を実有と見なし、地獄も実有と見なしたからです。これらの「実有法」が彼の心を縛り、罪悪感から脱け出せず、命終には必ず悪報を受けることになります。そこで仏は阿闍世王に父殺しの三輪体空を説かれました。父なる人は空、己なる人は空、父殺しの行為も空、人も事も存在しないと。最終的に阿闍世王は空に対する信根を得、殺父の罪業性罪が滅除され、命終に極楽世界に往生し、地獄で報いを受けることはありませんでした。
同様に、証果開悟も空であり、衆生を度す行為も実在ではありません。一切法を空と見なし、心中に人も事もなければ解脱します。夢中で人を殺し、目覚めた後も人を殺したと思い込むなら、心はまだ夢中にあり、覚めていないのです。心中に法が存在する限り、その法はあなたを束縛し障礙します。心中に法がなくなれば、いかなる法も障礙とならず、自らに何の影響も与えません。空の力は極めて大きく、一切の無明と業障を破り、一切の苦難と生死の繋縛を破ります。心が空じて初めて解脱し、空王法王となるのです。
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