衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年04月01日    土曜日     第2開示 合計3908開示

心が空であればあるほど、成就がある

凡夫から仏に成るまでの全過程は、一切の法が空であることを証明する過程であり、相を破り、見を破り、執着を破り、心を空しくし、一切の法を空じ去る不断の過程である。心が空でなければ、法を実在と見做す。これが無明である。一つの法を実在と見做すことが無明であり、その法があなたを束縛し、障礙となって解脱自在を得られなくする。たとえ仏に成るという法を実在と見做し、空でないと考えることも同様に無明である。無明がことごとく破尽されて初めて仏となる。仏に成りたいという心があるなら、心は依然として空ではなく妄想があるため、仏になることはできない。もちろん凡夫や三賢位の菩薩は依然として仏に成りたい心を持つべきであり、仏となることを希求すべきである。これは自らの道業を堅固にする礎である。三賢位を過ぎて法我見と法執を破る必要がある段階に至って初めて、次第に一切の妄想を破ることができる。心が空寂となった後、あらゆる造作の心がなくなり、無相・無願・無作となった時、初めて真の大成就を得ることができる。

須菩提は母胎の中ですでに心が空寂であり、出生後は空生と名付けられた。仏陀に従って出家修道した後は心はさらに空となり、有相の仏さえも心から空じて仏相に執着しなかった。仏陀が天界で四十九日間説法を終え、天上から人間界に戻られた時、弟子たちは皆仏陀を迎えに行ったが、須菩提だけは林の中に宴坐し、法身仏を念じて有相の仏に執着せず、仏の説法の法会すら生滅幻化であることを知っていた。そこで仏に会おうともせず法会にも参加せず、寂然として禅坐していた。仏陀は讃嘆して言われた。「汝は我を迎えに来なかったが、最初に我を見た弟子である」と。この「我」とは法身の無相真仏を指し、有相の報化身仏ではない。万法はことごとく空であり、報化身仏もまた空である。一切の後天的に造作された有為法はすべて空であり、仏が無量劫にわたって衆生を度すという偉大な事業さえも空である。

八地菩薩までは有為法の造作が多いが、八地菩薩になると心が空となる。三宝を供養し、衆生のため、仏教のために事業を行う心さえも空じ去る。ただ無心のまま任運に一切の利生事業を行う時、初めて仏は授記を与えて成仏を予告される。もし心が空でなく、有為の心で有為法を造作するならば、有為の心で三宝を供養することも含め、これによって大功徳や大福徳があると思い、心中で法を取って空じなければ、仏は授記を与えて成仏を予告されない。たとえ無量の諸仏を生生世世にわたって供養し、自らの一切を捨てて供養し、三千大千世界の珠宝をことごとく供養に用いた菩薩でも、仏は授記を与えられない。ましてや世俗の有為法を造作するならば、なおさら授記を得ることはできない。しかしこれらの有為法によって福徳を増すことができ、福徳が増すと智慧も成長し、心はますます空となり、ついには福慧両足尊となることができる。だから一切法がことごとく空であるからといって、何の善法も修める必要がないと言ってはならない。善法を修めなければ福徳の支えがなく、空の智慧は現れず、心はなおさら空じ尽くすことができない。

福を修める時も、心はできる限り空にすべきである。無所得の心行をもって福を修めれば、その福はさらに大きい。たとえば衆生を度す時、衆生を多く度せば度すほど自らに功徳福徳が増えると思ってはならない。実際には衆生を度すという事を通じて不断に福徳を増し、その後心空の功徳が現れ、心はますます空となり、ある程度に空じ尽くされた時、修行は成就する。福徳の多少を測る鍵は、衆生を度す過程で心がどの程度空じられているか、どの程度の無為に達しているかにある。心空無為こそが菩薩の智慧証量と果位を決定する。

だから外見の相に重きを置いてはならない。もし相の上で転じ、相に執着するならば、たとえ一年に百冊の本を書こうと、一年に数十万の衆生を摂受しようと、数億を布施しようと、これらはすべて有為法であり、その中に明らかな我執と法執があり、相に着いて心が空でなければ、智慧証量と相応しい菩薩の果位を得ることはできない。大福徳を具足した時のみ、証悟を得ることができる。如来蔵を証得した後、自らの種々の行い、福行を含めて観察すれば、これらの行いがいかに生滅不実であるか、いかにすべて如来蔵の功能作用であるかを知るようになる。実際の理の地には、これらの有為法相は実在せず、こうして心はますます空となり、修行の成就もますます大きくなる。

法執を破る道は非常に長く、初地菩薩から成仏に至るまで、二大阿僧祇劫の修行を通じてずっと法執を破り続ける。その前の一大阿僧祇劫では我執を破るため、我見を断じ尽くす修行の道もまた長い。意根の無明は非常に深重であり、執着性が大きい。意根の執着を破るには、まず意根の知見を破り、その思想を破らなければならない。つまり意根の我見を断じるのである。我見を断除した後、我執を次第に破り、さらに意根の法我見と法執を破る。一切法を実在と見做す知見を少しずつ破り尽くし、ついに無明が滅尽し、心がことごとく空となった時、仏となるのである。修行成就の大小は、無明がどの程度破られたか、心がどの程度空じられているかによる。心を空にし相を破るには、必ず如来蔵を実証し、さらに一切法の不実性を観察しなければならない。

仏が父殺しの悪業を造った阿闍世王の業を消したのは、まさに空の理を用いて、彼に理を明らかにさせ心を空にさせ、それによって罪業を滅除させたのである。阿闍世王は父を殺した後、ついに非常に悔恨し、死後必ず地獄に堕ちると思い込み、心は堪え難く苦しんだ。なぜ彼はこれほど苦しんだのか? 彼が父を実在と見做し、自分自身を実在と見做し、父を殺したことを実有と見做し、地獄をも実有と見做したからである。そうしたらこれらのいわゆる実有法が彼の心を纏縛し、罪悪感から抜け出せなくさせ、命終には必ず悪報を受けることになる。そこで仏は阿闍世王に、父を殺したこの事が三輪体空であること、父という人は空、自分という人は空、父を殺した事は空、人も事も実在しないことを解説された。ついに阿闍世王は空に対して信根を持ち、父殺しの罪業の性罪が滅除され、命終に極楽世界に往生し、地獄に堕ちて報いを受けることはなかった。

同様に、証果や開悟といったこともまた空であり、衆生を度すことも含めて実在ではない。一切法をことごとく空と見做し、心中に人も事もなければ、解脱するのである。夢の中で人を殺し、目覚めた後も人を殺したと思い込むなら、心は依然として睡夢の中にあり、目覚めていないのである。心中に法が存在する限り、その法はあなたを束縛し障礙となる。心中に法がなくなった時のみ、いかなる法も障礙となれず、自らに何の影響も与えない。空の力は極めて大きく、一切の無明と業障を破り、一切の苦難と生死の係縛を破ることができる。ただ心が空である時のみ解脱し、空王・法王となることができる。

——生如法師の開示
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阿闍世王はなぜ地獄の業を消滅させ、極楽往生を遂げることができたのか

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