衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年03月25日    土曜日     第1 回の開示 合計3903回の開示

不住相は初地に至って初めて可能となります

問:証道した後に雨相を見て、初めて心に自然と雨相がなく、雨が降っていることを知りながらも執着しないのでしょうか。証道以前は容易に執着し、他の事柄に心を移すか、この雨に注意を払わない限りは避けられないのでしょうか。

答:所謂る執着しないとは、雨相や一切の相に直面する際の心の修養であり、相を避ける行為は逆に執着を断てぬことを示します。悟りを開いた後の三賢位の菩薩でさえ雨相を見れば依然として執着を生じますが、以前よりは軽微になります。初地に至って初めて次第に雨相に執着せず、八地菩薩に至って真に雨相及び他の一切の相に執着しなくなります。

故に悟りを開いた後は真如に転依すべきであり、初地菩薩に至って初めて真の一分転依が可能となります。これは第六・第七識が識を智に転じたため、智によって真如を識取し依止できるようになり、識の智への転換が真如への転依の証となるからです。八地菩薩は大部分を転依しますが、未だ究竟ではありません。地前の菩薩が転依を唱えるのは煩悩の障りがあるため成就できず、真如には煩悩がありません。第六・第七識は真如の心性に似ているかと言えば、全く似ておらず、染汚が甚だしい故に転依がなく、初地に至って初めて一分相応します。悟りを開かぬ者が転依を唱えるのは妄言に過ぎず、己が面目も見極められぬまま転依を称するのは、拠り所なき者が何を頼りとできましょうか。自ら己を持ち上げることはできず、如来蔵と因果によって初めて持ち上げられるのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

第六第七識の心性を転ずることこそが転依如来蔵である

次の記事 次の記事

いかにして智慧に依り識に依らざるべきか

ページのトップへ戻る