見道は大乗と小乗の二種類に分かれ、大乗のみが見道と呼ぶのではなく、大乗の見道は如来蔵を証得した後に転依することを指すのではなく、如来蔵を証得した時点で既に見道に属する。ある者は言う:如来蔵を証得しても大乗の見道とは言えず、如来蔵の体性への転依が成就して初めて大乗の見道となり、悟りを証得したことになる、と。しかし転依を成就した後の証量がどのようなものであり、心がどれほど清浄に達するかを知る者はいるだろうか。もし転依後に初めて明心悟達となるならば、娑婆世界に一二の者も明心悟達する者はないだろう。誰が転依を成就でき、転依成就にはどのような智慧が伴うのか。誰の第六・第七識、五陰が如来蔵の心性に類似し接近しているのか。凡夫と地前菩薩の第六・第七識の心性は如来蔵の心性と大きく隔たり、どうして転依を成就できようか。第六・第七識は最低限煩悩を断じ、三果・四果の境地に至って初めて転依成就と称し得る。
修行とは第六・第七識を修めることである。修行と言えば即ち如来蔵を指し、無所住と言えば即ち如来蔵を指し、定と言えば即ち如来蔵を指し、涅槃と言えば即ち如来蔵を指す。如来蔵に関する理論的知識は膨大にあるが、第六・第七識は結局何を為すべきか。実は第六・第七識が無所住を必要とし、第六・第七識が禅定を必要とし、第六・第七識が涅槃寂静を必要とするのである。如来蔵が涅槃に入るか否かは現時点ではさほど重要ではなく、第六・第七識が修行の後に涅槃寂静となることが最も重要である。修行の重点は第六・第七識を修めることにあり、もし重点を誤って如来蔵の理論的知識に偏重すれば、心性が変わらない限り修行とは呼べない。現時点において、第六・第七識の修行に関係ない理論は大した役に立たず、むしろ道を障げる因縁となり得る。
8
+1