衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年03月17日    金曜日     第1 回の開示 合計3898回の開示

如来蔵の証得と転依成功との隔たり

如来蔵を証得することが前提であり、転依の成功は結果である。前提と結果の間には一阿僧祇劫に近い長い時間を要する。悟りを開いた後、如来蔵が五陰身の中で作動する様子を眼前に観察することができ、別相智を発起した後は智慧が次第に深く微細になり、如来蔵に対する観察がますます精緻になる。観察を重ねるにつれ、五陰がますます不実在であることが分かり、五陰身への執着が次第に薄れていく。同時に、如来蔵の作動における清浄無為の性質と、我も煩悩もない有為の性質を観察することができる。

如来蔵の清浄無為の性質も煩悩なき有為の性質も、非常に高尚で純粋な優れた特質であり、第六識と第七識は知らず知らずのうちに感化され、心性は気付かぬ間に変化し、ますます如来蔵の心性に近づいていく。これが転依如来蔵と言われる所以である。如来蔵に依りながら自らの心性を転換しているとはいえ、量変から質転換には至っておらず、量の蓄積だけでは本質的・実際的な心性の変化をもたらすには不十分であるため、如来蔵に依止するだけでは未だ成功とは言えない。

転依が成功した際の指標は何か。その主たる指標は心性の転換にあり、煩悩が消滅し、心が清浄となり、戒・定・慧を具足し、心量が広大となり、誓願が宏大深遠となり、私心なく恐れず、我もなく作為もない状態である。戒は菩薩戒の円満な実践に現れ、有相戒は意識で抑え制御することなく自然に全てを守持し、戒法に自然に適う。心性が転換すれば、身口意の行いが自然に清浄となり、やがて無相戒の実践へと自然に移行する。心は万物の主であり、心が清浄ならば全てが清浄となる。心が清浄で煩悩がなければ初めて無相戒を実践する能力と資格を得る。未だ煩悩を断じていない者は無相戒を受持できず、心が自律できないためである。

禅定においては初禅以上の禅定から四禅定までを具足しなければならない。初禅定を具足して初めて心が清浄で煩悩なく、深甚な智慧が生起する。初禅定がなければ煩悩が必ず現行し、有相戒すら守持できず、無相戒を受持する資格と能力は更にない。心が清浄でない煩悩の重い故である。智慧の面では第六識と第七識が既に転識得智し、深甚な唯識種智を具え、一切の法が唯識以外にないことを了知する。

心性の転依に成功した菩薩は、如来蔵の如く有為でありながら無為であり、有為の時は私心なく、無為の時は我なく、有為と無為・私心なきことと我なきことが完全に融合し、矛盾しない。禅定と智慧が深甚であるが故に、心は空で無相となり、無相であれば作為なく、世俗の法を貪らず、その心は俗を背き、作為なく、無相・無願・無作である。またその心は衆生を憐れみ、弘法利生を私利のためにせず、仏恩に報い、仏種を継ぐことを願い、十大無尽の誓願を発し、如来の家業を継承し、際限なく衆生を救済し、尽未来際にわたり永く絶えることがない。

——生如法師の開示
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