衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年03月19日    日曜日     第1 回の開示 合計3899回の開示

如来蔵を悟るになぜ再転依が必要なのか、それが証悟と呼ばれる所以

見道は大乗と小乗に分かれており、大乗のみが見道と呼ばれるわけではありません。大乗の見道とは如来蔵を実証することであり、如来蔵を証得することが即ち大乗修学の依り所とする道跡を見ることに当たります。如来蔵を証得した後に改めて転依を成就して初めて悟りとするのではなく、如来蔵を見たその瞬間が証悟なのです。転依について言えば、悟りを得た後には確かに徐々に転依を進める必要があり、転依が成就すればその心性は如来蔵の清浄性に近づき、煩悩を断じ、智慧の面では唯識の種智を具えるようになります。こうして如来の家に入り、真の仏子となるのです。

もし転依の成就をもって明心証悟とするならば、如来蔵を証得することは証悟とは言えず、証悟でないならば如来蔵を証得したことにはならず、単に如来蔵を理解したに過ぎません。理解しただけの如来蔵には功徳の受用がなく、そのため身口意の行いを如来蔵の清浄性と照らし合わせ、七識の身口意の行いを戒めていく必要が生じます。ある程度まで戒めが進み、もはや煩悩によって悪業を造ることがなくなった時、初めて証悟したと見なされます。しかしこのような戒めは、真に証悟していなければ成就することは不可能であり、いわゆる転依も永遠に成就しません。証悟していない者がどうして転依を成就できましょうか。証悟した後に改めて転依を成就し、再び証悟を確立する必要があるとは、矛盾しているとは言えないでしょうか。

証悟した後で初めて、徐々に如来蔵の空性・清浄性へと転依を進め、最終的に初禅が発起し煩悩が断じられた時、それが最も初歩的な転依となります。第二の転依成就は八地菩薩の位において、究竟の転依成就は仏地において実現します。凡夫が証悟もせずに転依の問題に及ぶことはなく、ましてや転依を成就することなど決してあり得ません。転依を成就するには最低限煩悩を断じ、心性と智慧が如来蔵に近似し、如来蔵に近づく必要があります。如来蔵には微塵の無明も煩悩もなく、煩悩習気も存在しません。六識・七識は如来蔵に依止して身口意の行いと智慧を清浄にし、戒定慧を勤修しなければならないのです。

最初の転依成就には、少なくとも煩悩を断じて三果や四果の菩薩となることが必要で、ようやく転依成就と呼べるに過ぎません。しかしこの段階でも煩悩習気は残存しており、如来蔵とは依然として隔たりがあります。おおよそ二つの無量劫の修行を経て大乗の無学に至れば、もはや如来蔵の心性と智慧への転依を必要としなくなります。明らかに転依とは、未証悟の凡夫が成し得るものではなく、ただ思い巡らすのみの境地なのです。

——生如法師の開示
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