楞厳経において世尊は繰り返し、五陰十八界はすべて如来蔵の性質であり、因縁性でも自然性でもないと説かれている。因縁性でもなく自然性でもないことは、よくよく思惟すれば理解できるが、しかし如来蔵性は非常に理解しがたく、たとえ如来蔵を証得したとしても観察することは難しく、理解も容易ではない。
形も相もない四大種子が、最も微小な粒子を構成し、その粒子がさらに集まってやや大きめの粒子を形成する。そして四大種子が絶えず粒子を構成し、粒子が絶えず集合して、最終的に肉眼で見える物質的な色法を形成する。無から有へ、空なる無形の種子から有形の最も微小な粒子へ、この過程そのものが非常に神秘的であり、まるで魔術のようである。それゆえに、如来蔵こそが魔術師であると言われるのである。
如来蔵が四大種子を出力すると言われるが、実質的に四大種子は如来蔵の外に出ることはなく、構成された粒子も如来蔵の外に出ることはなく、形成された物質的な色法も如来蔵の外に出ることはない。私たちの色身は如来蔵の中で生滅を繰り返しており、如来蔵の外に出ることはない。如来蔵が無形無相であるならば、色身が有形有相であるはずがない。では、いったいどのような状態なのであろうか。
もし物質的な色法に生があると言うならば、それは必ず如来蔵から離脱し、如来蔵の外に出て、独自の形相を持つはずである。四大種子が如来蔵の外に出て、四大種子が滅すれば再び如来蔵の中に戻るというのであろうか。しかし、四大種子は無形である。どうして有形的な物質を生み出すことができるのか?どのように変換するのか?如来蔵の外において、物質はどのように存在し変化するのか?何が物質を依り所とするのか?
四大種子が粒子を構成し、粒子が集合してより大きな粒子を構成する。四大種子が絶えず粒子を構成し、粒子が絶えず集合して、ついに色身が現れ、有形有相となる。しかし色身には生はなく、如来蔵の外に出ることはない。四大種子が如来蔵の外に出なければ、色身も如来蔵の外に出ることはできない。もし四大種子が如来蔵を離れて粒子を形成したとするならば、四大種子が如来蔵を離れて、どのように機能作用を持つのか?誰がそれらに与えたのか?種子が如来蔵を離れて、どのように運作するのか?無形からどのように有形を造り出すのか?色身が如来蔵の外に出たならば、どのように存在し変化するのか?何がそれを依り所とするのか?死の時、四大が分離し、種子が如来蔵の中に戻るとき、それはどのようにして戻るのか?もし如来蔵の外に出たのであれば、如来蔵の中に戻るということもありえない。元来、すべては如来蔵自身が遊び、自身がゲームをし、自身が魔術を自身に見せているのであり、自ら楽しんでいるのである。
識の種子が生じて識心を形成する。識の種子が如来蔵の外に出なければ、識心も如来蔵の外に出ることはない。如来蔵を離れて種子はなく、如来蔵を離れて識心はなく、識心のない心所法はなく、受想行識はない。もし受想行識が如来蔵の中で運作し、生滅を繰り返し、乱れ起き乱れ滅するのであれば、色受想行識はすべて如来蔵の家の中のことであり、幻化も家の外に幻化したわけではない。如来蔵が独り占めし、自ら楽しんでいるのである。
一切の法は如来蔵の外に出ることはない。ゆえに生はなく、また如来蔵の中に戻ることもない。ゆえに滅もない。世の中には何の現象もなく、世間もなく、何もなく、何も存在しない。それなら一日中、大寝をすればよい。しかし、いったい誰が大寝をするのか?如来蔵の中の規則や法則はそれほど神秘的で、神秘に満ちている。それを理解しなければ、おそらくよく眠ることもできないであろう。
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