衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年03月05日    日曜日     第3開示 合計3887開示

意根の捨受

捨受は苦楽の感受を感じない受であり、意根が捨受であるという説にも一理ある。意根は身体の触覚に対しては捨受であり、六塵の境界を直接感受しない。身体がどれほど痛んでも、意根は痛みを感じず、身識と意識が痛みを感じる。身識と意識が存在しない時、身体は痛みを感じない。例えば手術中、身識と意識が存在すれば人は意識清明であり、必ず激しい痛みを感じる。痛覚を除去するためには麻酔を施し、まず身識を滅し、次に意識を滅する。そうすれば患部を切開しても身体は痛みを感じない。

歯痛の場合、眠りにつき六識が滅すれば痛みを感じなくなるが、歯の炎症は依然として存在しており、目覚めれば再び痛みが生じ、夜中に痛みで目が覚めることもある。なぜ夜中に痛みで目が覚めるのか?昏睡状態では身体の状態が悪くても痛みを感じないが、目覚めると耐え難い痛みを感じる。地獄での報いを受ける際、痛みのあまり気絶して初めて痛みを感じなくなるが、業力は罪人を気絶させない。業風が吹くと罪人は再び意識を取り戻し、報いを受け続ける。禅定中も痛覚は軽減または消失する。それは六識が消失するか微弱になるためである。

したがって痛覚は身識と意識が共に体験する覚受であり、意根にはそのような覚受はない。仮にあったとしても、意識はそれを知らず、観察できない。衆生は皆、六識の覚受をもって覚受とする。六識が滅するか微弱になると、意根がどのような覚受や心理状態にあろうとも、意識はそれを知らない。知らないがゆえに、意根には感受がなく、心の働きもなく、あるいは意根は単純で智慧が浅いと考える。

意根の機能作用が強くなり六識に取って代わる時、あらゆる覚受は意根のものとなる。しかしこの時、意根の禅定と智慧の修養は既に非常に優れており、ほとんどが捨受であり、情緒の波動はない。一般の衆生の意根には依然として苦楽の受があり、捨受だけではない。意識に似た心理的覚受、すなわち屈辱感、抑圧感、煩悶、憤り、喜び、楽しさ、興奮などがあり、情緒の波動が大きいからこそ、怒りが爆発する、手舞足蹈する、喜色満面となるといった感情が現れるのである。

——生如法師の開示
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