衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年03月05日    日曜日     第4 回の開示 合計3888回の開示

一切法は如何にして如来蔵の性であると観ずるか

『楞厳経』において世尊は繰り返し五蘊十八界は全て如来蔵の性質であり、因縁性でも自然性でもないと説かれています。因縁性でないこと、自然性でないことは深く思惟すれば理解できますが、如来蔵性は極めて理解が難しく、たとえ如来蔵を証得したとしても観察しがたく、理解することも容易ではありません。

形も相もない四大種子が最も微細な粒子を構成し、その粒子がさらに集まってやや大きな粒子を形成します。四大種子が絶えず粒子を構成し、粒子が次々と集合していくことで、最終的に肉眼で見える物質色法が形成されます。無から有へ、空なる無形の種子から有形の極微粒子へと変化する過程そのものが神秘的であり、まさに魔術の如きものであるため、如来蔵を魔術師に喩えるのです。

如来蔵が四大種子を生じると言っても、実際には四大種子は如来蔵を離れず、構成された粒子も如来蔵を超えず、形成された物質色法も如来蔵の外に出ることはありません。私たちの色身は如来蔵の中で生滅を繰り返しており、如来蔵を離れることはなく、如来蔵が無形無相である以上、色身が形や相を持つことは本来あり得ないのです。ではいったいどのような状態なのでしょうか。

もし物質色法に生があると言うなら、それは必ず如来蔵を離れ、如来蔵の外に出て単独の形相を持つはずです。四大種子が如来蔵を離れ、滅すれば再び如来蔵に戻ると言うのです。しかし四大種子は無形であるのに、どうして有形の物質を生じるのでしょう。どのように変換されるのか。如来蔵の外で物質はどのように存在し変化するのか。何が物質を依り代とするのでしょうか。

四大種子が粒子を構成し、粒子が集合してより大きな粒子を形成します。四大種子が絶えず粒子を生み出し、粒子が次々と集まることで最終的に色身が現れ、形と相を具えます。しかし色身には生がなく、如来蔵を離れることはありません。四大種子が如来蔵を離れなければ、色身も如来蔵を出ることはできないのです。もし四大種子が如来蔵を離れて粒子を形成するなら、四大種子は如来蔵を離れてどのように機能するのでしょう。誰がその作用を与えるのでしょうか。種子が如来蔵を離れてどのように作用するのか。無形から有形をどう創出するのか。色身が如来蔵を離れた場合、どのように存在し変化するのか。何がそれを依り代とするのでしょうか。死に際して四大が分離し、種子が如来蔵に戻るとは、いかなる過程を経るのでしょう。もし如来蔵を離れているなら、再び如来蔵に戻るということもあり得ません。元来全ては如来蔵自身が遊戯を演じ、自ら魔術を披露し、自らを楽しませているのです。

識種子が生じて識心を形成しますが、識種子が如来蔵を離れなければ、識心も如来蔵を超えることはありません。如来蔵を離れて種子は存在せず、如来蔵を離れて識心はなく、識心の心所法もなく、受想行識もありません。もし受想行識が如来蔵の中で作用し、生滅を繰り返し、乱れ起き乱れ滅するなら、色受想行識は全て如来蔵の内なる事柄であり、幻化も如来蔵の外に出ることはなく、如来蔵が独り楽しみを享受しているのです。

一切の法は如来蔵を離れることがないため無生であり、また如来蔵に戻ることもないため無滅です。世の中には何の現象もなく、世間もなく、何も存在せず、何もないなら、ただひたすら眠り続けるしかありません。しかし一体誰が眠るのでしょうか。如来蔵に内在する法則はあまりに神秘に満ち、不可思議な様相を呈しています。これを理解せずしては、安らかに眠ることも叶わないでしょう。

——生如法師の開示
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