衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年03月05日    日曜日     第2開示 合計3886開示

意根の受

意根は捨受だけでなく、苦楽の受も有する。なぜなら意根には無明と煩悩があり、善悪の心所法が存在する以上、必ず苦楽の受が生じる。苦楽の受によって貪りと瞋りの煩悩が生起するのである。もし意根に捨受しかなければ、他人に殴打され罵倒され辱められても無関心であり、意識は多少不快に感じる可能性があるものの、すぐに収束し、復讐といった行動には至らない。これは大修行者の優れた修養と品性であり、一般人には到底備わっていない。もし意根に捨受しかなければ、賞賛され天にも昇るような称賛を受けても無動であり、権力・美色・名声・利益の前でもなお動じず、これらを追い求めることはなく、栄華富貴に淡白である。意識がこれらを好む可能性はあっても、僅かに好む程度で留まり、具体的行動に移すことはない。これが大修行者の徳行と修養であり、一般人は決してこのようにはならない。

なぜなら意根が六塵の境界を領受する際、多くの場合六識の助けを借りる必要があり、六識は境界に対して明瞭な了別機能を有するため、受も顕著かつ直接的である。それに対し意根の受はやや間接的で、一時的に曖昧となり、意識によって発見されにくい。そのため意根には受がないと言われるのである。色身における受は、意識と身識が直接領受するものであり、色身の疼痛や快適さは身識と意識が直接感じ取るものである。六識が存在しない時、色身の痛みや快楽の接触に対し、意識も身識も何ら感覚を持たない。しかしこの時、意根に感覚はあるのだろうか。意根には確かに感覚がある。だからこそ気絶や睡眠後に、意根が六識を呼び起こして了別させ、色身の問題を処理する方法を模索するのである。たとえ六識を呼び覚まして意識を回復させなくとも、気絶や睡眠中の色身の表情や身体姿勢は、意根に覚受があることを示している。

衆生は皆、六識の受をもって受としているため、意根の受は体得できない。意識の智慧が不足し道種智がない段階では、意根に受があることを観察することもできない。したがって多くの人々が意根に受はないと言うのも不思議ではないが、これは正理ではない。五遍行心所法とは作意・触・受・想・思であり、意根もまた五遍行心所法を有する。よって意根には必ず受が存在するのである。

——生如法師の開示
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意根の捨受

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