五遍行心所法における一切倶とは、五遍行心所法が一切の識心と倶にあり、一切の法と倶にあることを指します。識心が運行している限り、必ず五遍行心所法が運行しており、五遍行心所法を離れて識心は運行できず、存在できず、了別活動を成し得ません。それゆえ一切の法においても、識心の五遍行心所法が存在します。一切の法には少なくとも第八識と第七識の作働があるため、五遍行心所法は必然的にこの二つの識の作働に随伴するのです。
五遍行心所法が互いに倶生するとは、これらの心所法が集まりを成して生起・運行することを意味します。例えば第八識が一つの法を生じる際、五遍行のすべての心所法は第八識に随伴して初めから終わりまで運行し、一つも欠けることがありません。しかし第六・第七識の場合は必ずしもそうではありません。第六・第七識が作意した後、もし興味がなければ触を生じず、特に第七識意根はそうです。触があっても必ずしも受を生じず、特に第七識意根はそうです。受があっても必ずしも想を生じず、特に第七識意根はそうです。想があっても必ずしも思を生じず、特に第七識意根はそうです。意根の心所法が次の段階に進まなければ、六識は現れず、現れても消滅して運行を停止します。特に意根の思心所法が現れなければ、六つの識はすべて現れ得ません。ここに意根の王者としての支配的立場が窺え、その権能の大きさがわかります。
仏法は甚深であり、思惟が僅かでも不十分であれば偏りが生じます。しかし大多数の人の思惟には偏りがあり、自らそれを発見できません。自らの思惟が不十分であるが故に、やむを得ず著名人の言説を100%信受し、既成の答えに依拠して究竟と見做し、これを確実なものと考え、誤りがあっても気付かないのです。これは現在の仏教界において極めて普遍的な現象であります。
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