衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年03月03日    金曜日     第1 回の開示 合計3884回の開示

二十空の比量的思惟

『般若経』における二十種の空は非常に理解し難いため、今ひとつの譬えを用いて理解の便を図りましょう。譬えば、無限に広大で辺際を見極められない容器があり、その中に七種の異なる色彩を帯びた粒子が存在します。各粒子は無量の数を持ち、自由に組み合わせて無数の物体を形成することができます。

例えば五種の粒子を用い、容器内の一つの組み合わせ図案に従って一本の花を組み上げた場合、この花を観察する際、もし我々の視点あるいは注意力が片面のみに偏り、花の外観形象にのみ捉われるならば、色彩と相貌を見て花の属性と性質を知るに至りますが、それ以外の事柄は知らず見ず、このような認識は極めて偏ったものであり、そこから生じる執着は無益で徒労なものです。もし花の外観形象を捨て去り、微細にその構成と質を観察するならば、この花が実は五種の粒子の集合体であり、本質的に五種の粒子そのものであることを知るでしょう。花は幻影仮像に属し、実際には幻影仮像ですらなく、ただ五種の粒子が混合された組み合わせに過ぎません。

粒子は容器内に存在し、組み合わさって花を形成しても容器の外に出ることはありません。花が生じ滅びるに関わらず、粒子は元のまま、数量も変わらず、容器も動かず変化せず、何らの影響も受けません。偏った見方をすれば、あたかも花の生滅があるかのように見えますが、実際にはそのような事実は存在せず、幻相ですらありません。一つの組み合わせ図案に従い七種の粒子で五蘊身を形成するのも同様で、実質的な五蘊身の相貌は存在せず、幻化された影像ですらなく、五蘊身の生住異滅という現象は存在しません。生住異滅は痕跡もなく、衆生が愚痴に陥り偏執的に計量執着するのは無益で徒労なことです。五蘊身が生じようと住しようと異なろうと滅しようと、容器の外に出ることはなく、容器は動かず、何らの影響も受けません。

容器を如来蔵に譬え、七種の粒子を如来蔵中の七大種子に譬え、組み合わせ図案を如来蔵に蓄積された業種に譬えます。図案が使い尽くされれば消滅し廃棄され、花と五蘊身は如来蔵から生じた一切法に譬えられます。この譬えを対照として般若経の二十種の空を思惟する時、一つの着手点を得るべきです。世俗の法相に堕するいかなる思惟も邪解邪見であり、捨て去るべきです。世俗の法相に堕さず観察して初めて正見と実相の智慧が生じます。最終的に一切を空じ、空すらも空じて清浄無垢となれば、徹底的に究竟し、寂静涅槃に入ります。

このような比量思惟をもって大乗の一切経典を再読する時、仏の説かれた法の究竟義・真実義を容易に理解し、修行の契機を得られるでしょう。最終的に法を理解し明白にした後、その活用には実証が必要であり、実証には実修が求められます。仏が求められる三十七道品や菩薩六度、五戒十善等の法は全て逐一実践修行すべきで、順序を飛び越えたり省略してはなりません。そうでなければ実証できず、理解した法を活用することができず、生死は依然として生死のまま、苦は依然として苦のままです。

いかなる法を取り上げて対照思惟しても、速やかに契合します。仏法は一乗法であり、二も他もありません。二乗人の修証は世俗法相に執着する段階にあり、法相の有無を論じるのはいずれも究竟ではなく、法相は有でも無でもなく、有無は戯論です。故に二乗人は世俗の五蘊を恐れ、生死を畏れ、無余涅槃に逃れますが、完全に相に執着しています。四聖諦・十二因縁法も皆空不実であり、仮相上の計量に過ぎず、杯中の蛇影に執着するようなものです。故に五蘊無我と無余涅槃も空であり、世間の有を遣わすための方便施設であり、世間の無を空じ、有無ともに当てはまりません。人無我・法無我も方便施設であり、我の空、無我の空も、元来一真法界に帰し、これを離れて法はなく、一切法の一切性相は空不可得であり、空と不可得もまた空です。空が清浄に空じ尽くされ、一法も当情すべきものがなくなれば、究竟寂静涅槃に入り、もはや何事もなくなります。

——生如法師の開示
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