衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2023年02月28日    火曜日     第1開示 合計3879開示

現量、比量、非量の了別が運用する心所

三種の了別において、五十一個の心所法は必ずしも全てが用いられるわけではなく、具体的な状況に応じて分析する必要がある。状況が異なれば用いられる心所法も異なり、人によっても様々な理由で用いる心所法に差がある。同一人物であっても、時間や場面、異なる身体状態や心理状態、知識レベルや智慧の水準によって、運用する心所法は同一ではない。五遍行心所法は必ず用いられるが、五別境心所法は必ずしも全て用いられるわけではなく、善十一心所法が現れるとは限らず、根本煩悩や大・中・小随煩悩心所法も必ず現れるとは限らない。これらは全て状況次第である。

現量了別には十分なデータが必要であり、それには非常に深い智慧が求められる。勝解心所法が非常に強くなければならず、定心所法が現前し、念心所法が具足していなければならない。心心念念、間断なくこれを実践する必要がある。比量了別は比較的智慧が浅く、必ず比較を経なければならない。比較せず参照するものがないと理解できず、相対する縁がなければ着手する場所もない。一方、現量了別は比較せず直接に理解する、あるいはその場で即座に理解するもので、根が鋭いと言える。非量了別は全く証拠が見つからない場合、十分なデータもなく比較対象もない状況下で、想像や推測、推理などの手段を用いざるを得ない。用いる方法が多ければ多いほど智慧が限られており、勝解力が弱いことを示す。当然ながら定力も念力も不足しており、直接的に判断を下せず、結論を導き出せない状態である。

比量はあたかも、一人の力では物事を成し遂げられず、人に助けを求めなければ完成できないようなものだ。非量は助けてくれる人すら見つからず、一人で右往左往せざるを得ない状況である。偶然うまくいくこともあるかもしれないが、たとえうまくいったとしても智慧は不足しており、現量には属さない。まるで他人が今どんな服を着ているか見えず、対照するものもないため、想像や推測をせざるを得ないようなものだ。たとえ推測が当たったとしても、直接見たわけではない。

智慧が不足している者が、他人を段階的に導いて修証を求め現量で見道させる方法を知らないにもかかわらず、無理に導こうとする場合、排除法を取ることがある。例えば、この地には城外の五つの地域へ通じる五つの道があり、そのうちただ一つだけが北京へ通じているとする。彼は正しい選択の仕方を導くことができず、排除法を採用する。まず最初の道を指さすと、相手は躊躇しながら指さしを繰り返し確信が持てない。すると彼は目配せで「違う」と暗示し、次に二番目の道を選ぶ。相手は再び彼の顔色を見て「これも違う」と感じ、こうして二番目の道を排除する。このようにして四つの道を全て却下し、最後の一つの道だけが残る。相手が「この道だ、この道が北京へ通じている」と言うと、この人物は言う。「これはあなたが言ったのであって、私が教えたわけではない。おめでとう、見道したね」。皆さん、これで見道と言えるでしょうか? このような見道からどんな智慧が生まれるというのでしょう? 人を惑わす者、人を誤らせる者、まさにこのような人物です。紛れもない騙しであり、相手も騙されたことを喜んでいる。愚かな者一対です!

——生如法師の開示
前へ前へ

観無量寿経 第八観

次へ 次へ

現量と非量における重大な問題

ページトップへ戻る