衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2023年02月28日    火曜日     第2開示 合計3880開示

現量と非量の重大な問題

昨日、ある人が各種のデータ指標に基づいて、今日は株価が10%上昇すると分析・予測したところ、結果として今日は実際に10%上昇し、少しも狂いなく、非常に正確でした。この人の昨日の予測は現量でしょうか。この人が今日の株価の動きとテクニカルデータ指標に基づいて、明日は株価が2%下落すると分析・予測し、翌日見てみると、果然株価は2%下落していました。では、この人が今日分析・予測したのは現量でしょうか。どちらも現量ではなく、予測したものはすべて非量です。たとえデータがどれほど正確で間違いがなくても、株価の相場はこの目で見たものではないので、現量ではありません。データ指標に依拠して導き出し、思惟し、分析し、推測し、推理すること、これが非量です。私はあなたが明日悪い事をしようとするだろうと予測しますが、現時点ではあなたは結局悪い事をしていないので、悪い事をしたというのは事実ではなく、独頭意識が予測・推測したものです。したがって現量ではなく、非量です。現量とは、その場で彼がまさに悪い事をしているのを見ることであり、しかし実質的には彼は良い事をしているのであって、あなたの見たものもまた非量です。

私が両手で拳を握り、一つの拳には一元硬貨を握り、もう一つの拳は空拳とします。そして右の拳を差し出して、ある人に尋ねます。この拳の中に硬貨はあるか、と。相手は考えてから「硬貨がある」と言いました。彼が当てたことをお祝いしますが、たとえそうであっても、それは非量であって、現量ではありません。なぜなら、この答えは彼が現量で観察して得たものではなく、推測したものだからです。もし現量で観察したものだと言うなら、彼は拳の中に硬貨があるかどうかを見てはいません。もし神通があれば、天眼で見たものも現量見ですが、しかし彼には神通がありません。そうすると、肉眼で見えないものは親見ではなく、推測、憶想、推理にすぎず、非量です。事実を見ていないなら、それは非量であって、現量ではありません。

いったい何が現量なのか、皆さんは今、真切に理解できているでしょうか。現量とは、現前に存在する法を、この目で見て、見たことが真実で誤りなく、これこそが現量観察であり、現量の智慧による認知です。もし現実に存在する法でなく、現前に見た法でなく、独頭意識による思惟・推測・想像だけで出したものであれば、純粋に非量です。株価の相場は現前には存在せず、翌日になって初めて見ることができます。今の観点・結論はこの目で見て得たものではなく、心の中の推測・予估は当然、想像による非量です。予估がどれほど正確であっても、この目で見たものではなく、現前に株価の大盤の動きを観察して得たものではないので、百パーセント非量です。

同時にそれは比量でもありません。なぜなら、法と法の間の平等な比較がないからです。比量とは、二つの法または複数の法が互いに比較されて得られる結論であり、二つ以上の法が並存する関係であって、互いに比較できなければ、結論を得ることもできず、決定を下すこともできません。この目で見たものと想像したものとでは、その智慧の認知、心境、覚受が同じでしょうか。親しい人が次第に死んでいく場面を今まさに見ていることと、親しい人が今後死んでいく場面を想像することとでは、心境と覚受が同じでしょうか。親しい人の死を想像することは、たとえ誰でも今後必ず死ぬとはいえ、結局、親しい人は今まだ生きており、この目で見た死とは、心境や覚受が同じでしょうか。

かなり多くの人が、学んだ如来蔵 (tathāgatagarbha) の理論に基づき、学んだ如来蔵の様々な功能作用と体性に基づいて、如来蔵はある処、ある界、ある根、ある法において、ある種の功能作用を起こすのだと推測し、それから自分は如来蔵を親証した、開悟して明心した、聖人になったと考えてしまいます。この誤解はあまりにも大きく、その結果も相当に大きいものです。まるで貧しく卑しい人が、自分が帝王になったと想像し、この想像の境界を真実とみなして、自分は帝王だと言い、その結果、真の帝王がこれを知って大いに怒り、兵を派遣して彼を捕らえて斬首し衆に示し、さらに九族にまで連座させたようなものです。如来蔵がある作用を起こすと想像し、それから自分は開悟した聖人だと言うことの結果は、斬首して衆に示すことよりはるかに重大であり、修行は慎重にならざるを得ません。

大妄語の問題はどこにあるのでしょうか。それは現量と非量の区別が分からないこと、何が現量観察なのかが分からないこと、推測・分析・思惟から出たものは実質的に非量であって、現量観察ではないことが分からないことにあります。現量と非量を区別できないなら、この問題は非常に深刻です。かなり多くの人が、自分が得た結論が推測・推理によるものであって、根本的にこの目で見た現量見ではないことをはっきり分かっていないので、自分が何らかの結論を導き出したとき、自分は現量で証したと思い込みますが、実際には根本的にそうではなく、非量の想像と推測・推理なのです。特に禅定のない人は、すべて意識の導出作用です。たとえ禅定がある人や禅定の浅い人であっても、意識の導出作用があります。たとえ禅定の深い人であっても、思惟しているときにはちょうど甚深な禅定の中にはおらず、意識の思惟を用いているので、これもすべて意識の導出作用です。したがって、禅定があれば必ず現量で証したとは限らないのです。

——生如法師の開示
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現量・比量・非量の了別に運用される心所

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法住智能知過去和未来,这是现量知还是比量知和非量知?

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