衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年02月25日    土曜日     第5 回の開示 合計3878回の開示

観無量寿経 第八観

諸仏如来は法界身なり。一切衆生の心念の中に入る。故に汝らが仏を念ずる時、この心即ち三十二相八十随形好なり。この心仏を作す、この心是れ仏なり。諸仏の正遍知海は心念より生ず。故に応当に一心に念を繋ぎ、諦観すべし、彼の仏多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀を。

釈:これは観像念仏の方法を紹介するものなり。第七観より観像念仏を修し、成就した後、仏像が心中に自然と顕現す。臆想によるものにあらず、仏像自ら現出するものなり。これは定慧等持の三昧境にて、身心観像念仏三昧の中に在りて明心証悟を得る。第七観は仏の坐する蓮華座を観じ、第八観は仏像を観ず。初めは意念をもって像を観じ、禅定力と慧力が具足する時、三昧現前し仏像自ら顕現す。独頭意識にて見ゆるも、他者には見えず。この仏像は形有り相有る像にて、五蘊身を具えた仏像なり。観像念仏とは仏の五蘊報身を観じ、仏の法身を証するなり。

故に衆生が仏を念ずる時、仏像は衆生の心中に現ず。仏像は衆生の心が念い出し、想い出し、感応し、衆生の心が変化して現出するものなり。この仏像即ち如来の法界身にして、五蘊・十二処・十八界を具え、三十二相八十種随形好を具足す。像は心より生ず。如何なる心あるかによって、如何なる像を現じ、如何なる像を現ずれば、如何なる心あるか。心と像は一如なり。もし衆生の心が五欲六塵・色声香味触・財色名食睡を念念とし、六道中の事を念念とせば、衆生は即ち六道生死の衆生像となり、心と像は一致し、心と境界は相合す。衆生の心善なれば像も善く境界も善く、衆生の心悪なれば像も悪く境界も悪し。同理に、衆生が仏を念じ想えば、衆生は即ち三十二相八十種好の如来仏なり。正に衆生の心は仏を作し得、衆生の心即ち仏なり。

仏の十大名号の一つに正遍知と称す。正しく誤りなく一切法を知り、一切智を具足するを指す。十方諸仏集い共に現ずれば即ち正遍知海なり。もし衆生が十方諸仏を念ずれば、正遍知海は衆生の心より出生す。例へば念仏三昧現前する時、十方諸仏目前に立ち、正遍知海出生す。己が独頭意識にて見ゆるも、他者に見えず。諸仏は皆衆生の心念より出ず。心外に仏無く、心を離れて仏無し。故に衆生は応当に一心に仔細に彼の仏像を観じ、雑思乱想を交えず、世間妄想を夾雑すべからず。世間を妄想すれば世間現じ、仏は現じず。仏を見て悟らんと欲せば、一心に仏を念じ仏を観ずべし。

——生如法師の開示
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