衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年02月22日    水曜日     第1 回の開示 合計3870回の開示

熏習された意根を調伏し煩悩を軽減する方法

淨和の観行:最近、私が意根について少しばかり得た気づきがあります。それは、意根の「動作」が層状になっているという感覚です。五倶意識が生じる前には主に疑の性質を持ち、五倶意識が生じた後に初めて明らかな貪・瞋などの性質が現れます。日常生活では通常、貪・瞋などの習気が生じてからでないと反省に至りませんが、座中ではできる限り五倶意識が生じた直後に反省観照を心掛けています。ただしこの反省して放下する過程では、通常意識を用いてある程度の導きを行わねばならず、反省した直ちに放下することはできません(これは意根が五蘊の空性を完全に認めていないためです)。現在の悩みはここにあります。

評:意根の最初の疑いは法への不確実性に対するもので、まだ決断を下せない状態です。一旦内心が確信に至れば選択が生じ、その選択後に六識が生起して意根の考えに従って造作を行います。造作の過程で、意識は法を観察し、自らに貪瞋痴があることに気付きます。この「自ら」とは意根を指します。意根の貪瞋痴は六識の造作を通じて現れ、この時独頭意識は観察力あるいは反観力を有しています。一般に、独頭意識の覚悟が十分でない場合、身口意行の造作が完了した後に初めて自らの貪瞋痴の習気に気付くため、一歩遅れます。もし独頭意識の覚悟が強ければ、造作を決定しようとする時点で自らに貪瞋痴があり、造作しようとしているのが貪瞋痴の業行であることに気付き、造作しないと決断します。この決断が意根に伝わると、意根は再び自らの選択を行い、最終結果は意根の覚悟次第となります。

もし意根の覚悟が不十分で習気が強い場合、依然として自らの選択を固守し、身口意行を変えようとせず煩悩を現行させ続けます。しかしそうであっても、独頭意識の反観は依然として効果があり、意根に種を埋め込み、意根を熏習させ、このような行為が貪瞋痴であり、良くないこと、すべきでないことを認識させます。次に意根が再び煩悩を現行させようとする時、心に躊躇いと障害が生じ、煩悩の力度が軽減されます。意識が繰り返し阻止し諭すことで、意根の心は変化し、煩悩の造作を継続しなくなります。故に修行は一朝一夕で成るものではなく、意識の毎回の反観は全て意根への熏習であり、煩悩を消除する種を埋め込みます。これらの種は遅かれ早かれ根を張り芽を出し、花咲き実を結びます。意根が累生累劫にわたって積み重ねた煩悩は山の如く、短時間で変えられるものではありません。忍耐強く熏修を続けることが必要であり、常に覚悟を保つべきです。

——生如法師の開示
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