衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年02月18日    土曜日     第2 回の開示 合計3867回の開示

臨命終時における如来蔵はいかにして色身から少しずつ退出していくのか

色身は如来蔵における四大種子によって形成されたものであり、死亡時には色身内の四大種子が散じ帰り、再び生起しなくなる。これにより色身は滅失して作用を継続できなくなる。臨命終時、四大種子が分解分散し、種子が如来蔵に回帰する過程は一瞬で完結するものではなく、その所要時間は善悪の業によって異なる。四大の分解とは、色身上の四大種子が徐々に色身から退き、色身の作用が段階的に失われ、次第に硬化していく現象を指す。この過程を方便的に「如来蔵が色身から退き、もはや色身を保持せず、色身は生命力を失う」と表現するが、実際には如来蔵は退転変化せず、如来蔵中の色身が変化するのである。

如来蔵は形相なく、その色身への入出を目撃する者はいない。四大種子もまた無形無相であり、色身を形成し退出する過程を直視する者はいない。ただ色身の変化を通じて、種子の変化作用と如来蔵の働きを観察し得る。色身に如来蔵の作用が存在すれば寿・暖・識が具わり、如来蔵がなければ寿暖識も存在しない。臨命終時、寿命は徐々に消滅し、身体の温度は次第に失われ、冷たさと硬化が進行する。識も漸次微弱となり、心はますます混濁して無知無覚の状態に至り、中有の身へと移行する。如来蔵が最終的に色身を離れる部位、即ち四大が最後に分解する箇所は、寿命が最終的に止滅する場所であり、体温が完全に消失する点である。この部位が後世に生ずる業道を決定する。身体の最後の分解点が上方であるほど後世の業道は善に傾き、逆であれば悪の業道へ向かう。

衆生が見ることのできない法こそ真実であり、目にする法は仮のものである。仮を見て真を見ず、これを無明と称する。もし時処を超えて常に真実を見るならば、世間に事あることなく、一切は空であり、一法も情執に値せず、世間も存在せず、心は全て自性に回帰して智慧を具足する。これを智と名付け、智は情ならず、有情に智なし。

——生如法師の開示
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