衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年02月20日    月曜日     第1開示 合計3868開示

一切法の生住異滅は業種によって主導される

無量劫にわたる生死輪廻の中で、衆生の主導者は一体誰なのか。ある者は如来蔵が主導すると言い、ある者は意根が主導すると言う。この二つの説はいずれも正しいと言える。如来蔵は受動的に主導するタイプの主宰者である。なぜなら如来蔵には何かを支配しようとする心がなく、自ら進んで衆生に無量劫の生死輪廻をさせることはない。しかし結局のところ、如来蔵が一切の法と生死輪廻を顕現しているため、如来蔵もまた衆生の生死輪廻における主宰者と言える。一方、意根には心の働きを主宰する性質があり、衆生の生死輪廻において能動的に主導する。その心と業が一切の法と生死輪廻を主宰しているのである。

私の見解では、衆生の生死輪廻は業種が主導し、業種によって支配されている。業種が主導するということは、すなわち如来蔵が主導することを意味する。なぜなら業種を収蔵し放出するのは如来蔵であり、業種に基づいて衆生の因縁果報が実現されるからである。したがって、業種が主導することは実質的に如来蔵が主導することに他ならず、如来蔵が主導することは業種が主導することと同義である。業種自体に能動性はなく、主人公ではないが、確かに主導的な役割を果たしている。

業種が主導することは同時に意根が主導することでもある。意根は業種と相応し、どのような業があればどのような意根が生じ、どのような意根があればどのような業が生じる。両者は互いに一致しており、意根が好まない業種も数多く存在するが、結局は意根が主導して造り出したものである。意根が主導したいと思っても、それに相応する業種と業縁が必要であり、相応する業種がなければ、意根も主導できず、業種に流されるしかない。したがって、業種が主導することは意根が主導することであり、意根が主導することは業種が主導することである。業種は如来蔵と意根を統一し、双方とも主導しながらも主導していないと言える。如来蔵は業種に従って一切の法を生じる受動的な主導者であり、意根は能動的に主導するが、それでも業種に順応し符合している。結局、一切の法は業種が決定するのである。ただし、意根の願力が非常に強い場合には業種を超越し、願力が主導して一切の法を顕現させることも可能である。例えば阿羅漢が四禅定を修得した後、本来なら臨命終時に通常通り死亡するはずが、命を前倒しまたは延長して逝去時期を自ら決められるようになる。この時は意根が主導しているか、あるいは意根の願力が主導していると言える。しかし仔細に分析すれば、やはり業種が主導しているのである。なぜなら四禅定を修得したことで業種が変化し、業種が変化すれば果報も変わり、生死が自在になるため、あたかも意根が主導できるかのように見えるだけである。

実際のところ、意根は時々刻み、生々世々にわたって業種と相応している。一切の法は依然として業種が主導し、業種によって生住異滅が決定される。衆生の六道輪廻は本来、業行によって決定されるものである。修行を通じて大いなる清浄な願いを発し、業種が変化すれば、果報も変化する。表面的には意根が主導し、意根が望む通りに物事が進んでいるように見えるが、実は依然として業が主導し、決定作用を及ぼしているのである。

例えば植物状態の患者が数十年も床に臥せり、身体を動かせない場合、我々の見解では本来なら意根がとっくに役に立たない身体を離れる選択をすべきである。しかし、その者に人界におけるわずかな福徳が残っており、人間として享けるべき福が尽きておらず、人界の業種が消滅していないため、植物状態で生き続けるのである。その者はこのわずかな福を享け尽くそうとし、長期的な計画を立てる智慧がなく、来世のために福報を残し、より良い生活を送ろうとはしない。もし福の業種が尽きれば、意根は直ちに離脱を決断する。決断しなくても受動的に離脱せざるを得なくなる。なぜなら生き続けることが不可能になり、生命を維持する福報と業種がなくなるからである。

また、過去において証果を得た者が、もはや生きることを望まず自殺によって早期に人間界を離れ、来世において天道に生まれて修行を続ける例がある。このような状況を意根が主導したと言うことも可能である。しかしそれは我見を断じたことで相応する善業の種子が生じ、人間界を捨て天道へ修行に向かうことを可能にする福徳と善業が支えとなっているためである。彼らは我見を断じた善報と福徳を早期に享けることができ、意根が自殺を望めば成功するのである。もし我見を断じておらず、業種が変化していなければ、たとえ自殺に成功しても死後は天道に転生せず、無余涅槃にも入らず、必ず本来の悪業と不善業に従って転生し、おそらく三悪道で苦しむことになる。したがって、一切の法は依然として業種が主導して決定しているのである。

業の種子は如来蔵に存在し、如来蔵は業種を了別して業種に基づき一切の法を造作し、衆生の因縁果報を顕現する。したがって一切の法は依然として如来蔵が主導している。意根は表面的には主導しているが、必ずしも支配できるとは限らず、業種の制限を受けてどうすることもできない。よって一切の法は因果の中に存在し、因果を離れることはなく、因果に背く法は存在しないのである。

——生如法師の開示
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臨命終時における如来蔵はいかにして色身から少しずつ退出していくのか

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六七の識は如来蔵の心中にあるのか、それとも如来蔵は六七の識の心中にあるのか

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