衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年01月30日    月曜日     第1 回の開示 合計3839回の開示

禅定において意根の思量をどのように働かせるか

禅定において意識の思惟を用いず、意根の思量を用いるこの修行は非常に深遠であり、一般の人々には容易に達成できません。深い禅定の基盤と一定の観行の修行が必要です。禅定と観行がある程度まで進むと、意識の思惟を意根の思量へと転換できるようになります。意識の思惟は比較的浅く表面に浮かんでおり、通常の観察で把握できます。例えば今この瞬間の心にどのような念があるか内省すれば、自分が何を考え、思索し、計画しているかが分かります。これらの念は通常表面に浮かび、全て意識の思惟によるものです。

同時に背後には意根の支持と主導作用が存在しますが、定力と智慧が不足していると観察が困難で、自らの真の心の動きを認識できません。心を極めて微細な状態に修めると、意識が思惟する際に背後で主導的な力を発揮している存在を観察できるようになります。その力と思考の流れこそが意根のものです。意識の背後にある意根の力を発見し、意根を捉えられるようになったら、徐々に意識の思惟作用を薄れさせ、一定の段階に至れば意識の念を捨て去ります。捨て去った後も心に念を保ち、意根の思考活動を維持し、完全な無念無想に陥らないようにするのは極めて困難な修行です。

禅定においては、心の深層に存在する力を発見するよう努めなければなりません。それは実際に念を有し、思考活動を行い、思索可能な存在、つまり意根の思量活動です。発見後はその思量活動を保持し消滅させず、意識が思惟する法義を意根に委ね、意根が独自に思量を続けさせるのです。これが深遠な参究の状態であり、禅を参ずるとはまさにこのような修行です。五蘊無我を思量するのもこのような工夫によるものです。こうして意根の思量を活性化させるこの思考様式、このような修行を意根の思量と呼びます。

これを達成するには甚深なる禅定が不可欠です。優れた禅定の工夫により粗い妄念を捨て去り、やがては微細な妄念も捨て去ります。妄念とは重要でない法に関する思惟、つまり雑念や多念を指し、正念への妨げとなるため全て除去します。残るのは意識が思惟すべき法のみとし、その後意識の思惟も捨て去り、意根にその法を思量させます。意識と意根が思考の役割を交替するのです。この時意識は依然存在し、軽微な了別作用を担いますが、深い思惟や分析、推論は行わず、意根に深遠な思量を委ねます。言語・文字・音声を伴わないこの思量作用は、禅定と智慧が不足していると観察が困難です。

意根のこの思量機能は、心の深層の想いとも呼ばれます。人の心の想いは二種類に分かれます:表面に浮かぶ浅層の意識の想いと、深層に潜む意根の想いです。後者が真の想いを表します。例えば他者に何かを計画していると口にしても、実際にはその想いがなく、言葉は敷衍的な意味を持ち、心には別の声と想いが存在します。その想いは秘匿され、意識の言語で隠蔽されたり、注意を逸らされたりします。

絶えず自らの意根の心を内省し、意根の心を捉え、元来意識が執着し思惟していた法を意根に委譲します。意根にその法を執着させることで、意根が時処を超えて法を念じ続けるようにします。これにより意根の思量性が顕現します。意根が受容すれば薫染は成功し、受容しなければ不成功です。修行が十分に至って初めて成功します。

日常生活において我々は皆意根とその思量作用を用いていますが、観察できず区別もつかず、総括もできないため、意識の思惟か意根の思量か判別できません。これには禅定の修行と観行の智慧を増す必要があり、これらの問題を明らかにします。禅定が深まって初めて心が微細になり、意識と意根の区別がつき、心の声と表面の声を区別できるようになります。これにより意根の思量状態を理解し、意根の思量性を捉え、徐々に運用できるようになります。

この境地に達するには禅定の修行を強化し、智慧の弁別力を高め、煩悩を調伏し、妄念を減らし、心を仏法に縁らせ世俗法に攀縁させないようにします。禅定が深まるほど心は集中し、妄念は減少し、遂には妄念を捨て去れるようになります。心が微細になり智慧が深まるにつれ、意根の機能作用は良く発揮されます。

色身が調伏され定慧等持の境地に至れば、直接意根の思量で問題を解決できます。ある法への疑情が強い時、直接その法を心に懸けます。初めは意識が懸けますが、次第に意識の作用を軽減し、意根にその法を懸けさせます。これにより深い禅定に入り、意根に深く法を思量させます。意根が専注すればするほど禅定は深まり、禅定が深まれば意根の思量は更に専注・深遠・微細になり、遂に問題を明らかにします。同時に三昧の境地に入り、法喜に満たされ、身心が軽安となり、禅悦が現れます。三昧とは定慧等持の境地であり、この境地が現れると一日中精神状態が極めて良く、身心共に軽安となります。

——生如法師の開示
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