衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年01月20日    金曜日     第1 回の開示 合計3829回の開示

識と意根の好みの違い

心が何かを好きになることには、およそ二つの層次、あるいは二つの程度がある。表面的なのは意識の好きであり、深層のものは意根の好きである。主導権を持たないのは意識の好きであり、好きなものを千方百計で手に入れようと行動を起こすのは意根の好きである。中毒状態や夢中になること、念念不忘となるものは、すべて意根の好きに属する。例えば家庭において家長が決定権を持つように、何かを好きになる場合、子供の好きと家長の好きが存在する。しかし子供が何を好きになっても決定権はなく、必ず家長の同意を得て初めて好きなものを手に入れる方法があり、一方家長は好きなものがあれば手段を講じて手に入れる。子供は意識に相当し、家長は意根に相当する。

もし意識の好きが意根に影響を与え、意根も同じく好きになる、あるいは意識の好きを承認する場合、意根はその好きなものを獲得することを決定し、取りに行く。意識の好きは一方で意根の影響を受け、一方で環境の六塵境界の影響を受ける。意根の好きは一方で無始劫以来の煩悩習気に由来し、一方で意識の薫習によるものである。もし意識の好きが意根に影響を与えなければ、意根はこれを無視し、意識は空しく好きなままでは得られない。例えば法を学ぶことを好きになるのは、まず意識が先に好きになり、その後意根が好きになる。もし意識が法を学ぶことを好んでも意根が好きでなければ、精進することはない。もし意根も法を学ぶことを好めば、孜々として求め、精進して修学する。長く続けて諦めないのはすべて意根の好きによるものであり、断続的なものは意根があまり興味を持たず、意識に引きずられ制御されている状態で、制御できなくなると意根は離れていく。

——生如法師の開示
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