各識の証自証分とはどういう意味か。各識が自証する相分の内容を、あなたは知ることができるか。例えば第八識には見分があり、それは能見性である。第八識の相分は第八識が見る相、例えば種子である。第八識の自証分は第八識自らが相分の種子を見て、それを了知し、了別したことである。第八識の証自証分は、第八識が自らの自証分を証明し、証得したことであり、自らが相分の種子を了別したことを知り、自らが相分の種子の了別を完成させたことを知るのである。第八識自らが何をしたか、それは第八識自身が明らかにしており、第六・七識には分からない。深い道種智がなければ。
我々は第八識が相分の種子を了別したかどうかを知っているか。知らない。第八識は意識の知覚を代行せず、意識が知らないからといって他の識も知らないとは限らない。意識の不知をもって他の識の知を代替してはならない。第八識を甲とし、意識を乙とする。甲が知る法を、乙は必ずしも知らない。乙が知らないからといって甲も知らないわけではない。甲の証自証分は乙の証自証分を代表せず、乙が甲の証得した相分を明らかにしていないからといって、甲が証得していないわけでも、知らないわけでもない。また多くの意根の知は、意識には明らかでない。明らかでない以上、意根も知らないなどと言うべきではない。
衆生の知は、大多数が意識の知を基準とする。意識が知らないことは「私が知らない」と言い、ある事柄が発生していない、存在しないとする。実際には第七識はその事柄が発生したことを知り、その事柄を知っている。しかし第七識には言語文字の機能作用がなく、表現できず、意識に知らせる方法がない。意識は自ら知らないことは存在せず、他の識も同様に知らないと感じる。このように断定するのは非常に独断的で、道理に合わない。
凡夫衆生の意識の独断はどの程度か。意識自らが意根を証得できず、観察できないため、意根の自証分と証自証分を認めない。意根は自己に対する内省性を持ち、内省能力があり、自らの了別を反観できるが、意識はこれを知らず、観察できず、それでいて意根には反観力がなく、証自証分がなく、ある種の自証分もないと言う。意識がこのように考える時、まさに意識自身の愚痴・無明・暗鈍を示しているのであり、知っていることが少なすぎ浅すぎ、誤解が多すぎることに自ら気づいていない。仏は「慎んで汝の意を信ずるなかれ、汝の意は信ずべからず」と言われた。なぜか。無明が深重だからである。
11
+1