衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年01月07日    土曜日     第3 回の開示 合計3805回の開示

意根と意識作用の区別

意根と意識活動の区別

意根が動心すれば、身体には顔が赤くなり心臓が高鳴る、羞恥心を覚える、あるいは青筋が浮き出て全身が震えるなどの反応が現れます。意識のみが動いても身体には何の反応もなく、比較的平静です。口先だけで行動しない者は意識のみが動き、意根は動きません。言行不一致の者は意識で語りながら、意根は実行する意志がなく従って行動しません。欺く習慣のある者は意識で演技し、意根は全く動心しません。故に人の徳性を観察するには、その言動の一致を見るべきで、発言のみに依拠すべきではありません。行動は言葉よりも真実を表します。

意根の活動には一定のエネルギー消費を要しますが、意識活動は必ずしもエネルギーを消費せず、あるいは少量の消費に留まります。意識活動がエネルギーを消費する場合でも全身に関与し、エネルギーは全身の至る所に通じているためです。全身は同一のエネルギーを使用しており、思考に偏る者はまず脳内のエネルギーを消費し、それが不足して初めて全身のエネルギーを使用します。脳が全身を牽引するため、脳が疲労すれば全身も疲弊し休息を要します。

意識活動にも意根の関与が全くないわけではなく、多少なりとも意根が関与するためエネルギー消費が生じます。関与が深ければ消費量も増大します。深く思考せず意識の表層活動のみを行う場合、終日静かに過ごしても疲労を感じず、空腹も覚えにくいものです。深く思考すれば短時間で疲労し空腹を覚えます。故に私は人や物事に関わり合いを避け、思考を巡らせず、重要でない問題を考慮したくないのです。有意義で重要な事柄以外は。

禅に専心する際には多大なエネルギーを消費しますが、思考を止めて定を修する時はエネルギー消費が少なく、身体は寧ろ快適で軽やかに感じられます。定中の無思考は省力的ですが、観行思考は脳を酷使します。意識思考は浅薄な心力で行われるため迅速且つ軽快で、広範に流暢に語り、警句を連ねられますが、内包は浅く知識水準や記憶力の発揮に留まり、智慧の次元は稀にしか表れません。意根思考は深甚な心力を要し、識心の運行は緩慢で疲労を伴いますが、内包は深遠で、人間の深層の智慧を体現します。

意識と意根の差異を比喩すれば、ぬかるみを歩行するようなものです。浅い泥が靴底までなら歩行は迅速で省力的ですが、足首や脹脛、膝まで泥に漬かれば足を引き抜くのが困難で、一歩毎に多大な労力を要し、歩行は極めて緩慢になります。意識思考は浅い泥道を歩く如く、意根思考は深い泥道を歩く如し。故に意根で思考する者が常に深層に在る時、集中状態にあるため、念頭を転じ問題を切り替える毎に思考が緩慢となり、多量のエネルギー消費と疲労感を伴うため、静寂を好み外界の干渉を望まないのです。

——生如法師の開示
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