一切の法はただ心の想いより生じ、心は一切の法を創造し、また一切の法を変えることができます。現前の色身を含め、福徳・定力・慧力が十分であれば、色身の変化は最も速やかには一念の間に、遅くとも一生のうちに成し得ます。これは八識の和合による作用であり、第六・第七識の妄想に五蘊が連動して転動する結果です。妄想によって生じた色身が己の意に沿わないなら、再び妄想を通じてこれを改造すればよいのです。自らの心力が不足する時は、念仏・読経・呪文を唱え、諸仏菩薩や護法善神の加護を感得することで色身を改め、疾病を除くことができます。中でも呪力の効果が最も強く、心を専一にしやすいのです。
如何にして呪文を念じ観想すべきでしょうか。まず適切な呪文を選定します。病を除く呪文は数多く存在し、一切の呪文に除病効果があると言えますが、その効果には多少の差があります。薬師咒は薬師如来が衆生の病苦を除くために説かれた呪文であり、楞厳咒は呪中の王と称され一切の問題を解決し、除病効果も極めて優れています。この二つから一つを選び、専心して緩やかに念誦しつつ観想を合わせます。呪文の長短に拘る必要はなく、全文を唱え尽くさずとも、幾句かを念じるだけで結構です。心意が発せられれば諸仏菩薩は信号を受け取り、加持を授けてくださいます。呪文の句をゆっくりと専注して念じるほど良く、緩やかな速度は観想に精力を注ぐ余裕を生むからです。
観想こそ最も重要な部分です。心意が転動して初めて色身の現状を改めます。第六・第七識が動く時、自らの如来蔵は心意に呼応し、想いのままに成就します。如来蔵は当然第七識である意根に連動しますから、意識が呪文を念ずる際には深い定力を以て意根をも念誦に導かねばなりません。定力が不足し意根を動かせなければ効果は得られません。もし観想力が極めて強ければ、念仏や呪文を用いずとも自他を変容させ得ます。鍵は自らの念力にあります。呪文を巧みに唱えても観想力が伴わず、心念力が弱ければ効果は乏しく、要は観想力の如何にあるのです。
如何に観想すべきでしょうか。白き仏光あるいは黄金の仏光を観じ、病患部——特に内臓を中心に、あるいは全身を照らすようにします。仏光が頭頂の百会穴より全身の四肢を経て足底に至る様を観じます。百会穴より注ぐ仏光が頭脳を満たし、特に勝義根の所在を光明で包みます。これにより眼耳鼻舌の機能は健全となり、頭脳は明晰で健康となります。さらに頸部から全身の内臓に至るまで光明が充満し、病症が徐々に消滅します。観想する所に光明が現れ病気が退けば、色身は好転します。特定部位の病が重篤な場合は心力を集中し当該部位のみを観想します。例えば鼻詰まりには肺を観想し、仏光が前胸より肺に入り込み、肺全体が光明に変容し病気が徐々に排出されて呼吸が正常化する様を描きます。脾胃その他の臓器も同様の観想法に従います。
例えば体内に腫瘍・腫塊・嚢胞、あるいは癌細胞が存在する場合、仏光が該当部位を照らし黒き病気が少しずつ排出され、腫瘍が次第に縮小し、その部位の色調が健康な肌色あるいは光明色に変容して病が癒える様を観じます。体内の結石も観想によって消滅させ得ます。結石が徐々に小さくなり、最終的に最も近い身体部位から排出され消え去る様を描きます。観想力に優れた者であれば、結石が転がるようにして瞬く間に消滅し、跡形もなくなる奇跡を体験するでしょう。あらゆる疾病にこの方法を適用できますが、法に定まった形はなく、観想法はこれに限りません。探求を重ねれば多様な方法を見出せますが、その発想は大同小異と言えます。
この方法を用いれば、天涯遠く離れた者への観想も成就します。相手が地球上の何処にあろうと、天空や宇宙、あるいは六道の何れかに在ろうとも、その相貌を記憶し観想力が十分であれば、相手は利益を得て現状を改め、さらには三悪道から脱出することさえ可能です。この方法は永劫にわたり用いられ、無数の人々を利益します。ただし業を背負うことは必定です。自らの業障が重い時、あるいは修行が重要な局面にある時は、己を修めることに専念すべきです。道業こそ最優先であり、一人の成就は無数の人々を救う礎となるのです。
このような観想を続けることで心が細やかになり、観想による定力を基盤として、像を観じて念仏し、想いを観じて念仏する修行に進むことができます。仏像を明晰かつ詳細に観じ得れば、定慧等持の念仏三昧を証得し、ついに明心して悟りを開くに至るでしょう。
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