意根が文字言語と対応しないとは、意根が自らの思想・観念・見解を文字言語で表現できないことを意味する。しかし意根は文字言語を理解できないわけではない。総括的な主導識としての立場上、六識を指揮調整する権能を有しており、自ら言葉を発したり文字で表現したりできなくとも、意識に発話させ、意識を通じて文字表現を行わせることができる。多くの実務は六識の協力を得て達成可能である。例えば大統領が精力に限界があり分身の術がなく、国家全体の大局を掌握するだけで市場調査や統計分析などの具体的業務に携われなくとも、部下を任命してこれらの業務を完遂させることができるように、意根も総覧全局を要するため具体的事項を自ら処理できず、五倶意識や独頭意識を用いて細々とした事務を処理し、報告を受けるだけでよい。報告聴取の過程で思心所・慧心所・勝解心所を働かせて判断と決断を行い、その後命令を発して六識に指示通り問題解決を図らせるのである。
意根は啞者に喩えられる。言葉を発せずとも人の話を理解できる。第八識も同様に、言葉を発せず文字言語に通じないが、独特の了別方式を有し、七識とは異なる特殊情報を了別する。意根の思は意識の思に劣らない。大統領が時間と精力を割いて自ら市場調査を行えば、部下より優れた成果を上げ得ただろうが、ただ時間的余裕がなかっただけである。意根が六識に代われば六識を凌ぐ可能性を秘めているが、現状は精力が不足しているに過ぎない。故に禅定を修し、修し、再び修する必要がある。これは意根に時間的余裕を与え、専注を重ねることで、意根の大智慧が湧現することを期するためである。
意根を一つの識、或いは一個人と見做せば、その体性と心所法を理解し得る。意識と五識は意根に代わって業務を執行する存在である。意根の智慧が充分であれば、六識が如何なることをなそうとも、意根はすべてを明瞭に把握できる。もし意根の智慧が不足し勝解力も弱ければ、誤解が生じたり六識の作法を理解できず、その所為を明らかに把握できない。仮に意識が適切に表現できず、或いは表現が不明瞭であれば、意根も充分に理解できず、意識の思惑を了知し得ないのである。
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