邪精進は正精進と相反し、努力の方向が正しからず、方向が誤っている故に努力すればするほど目標から遠ざかります。正精進が目指す方向は無我を悟り、空を証得することにあり、ますます無我となり、ますます空となり、徹底的に究極に至るまで、戒・定・慧の三無漏学を修めることにあります。これに対し邪精進の者は心中に我が盛んであり、有に執着して空を離れ、いかなる修行もいわゆる「我」という世俗的利益のため、世俗の有に執着し、名声や利益を求め、道に背いて進みます。このような状態では、日夜休まず座禅を組み経文を唱え仏号を称え、教法を学び弘めても、すべて自己中心、自己利益中心であり、己が利益を得、関係者が得をすれば他人の善し悪しは問わず、むしろ他人の利益を損なうことさえあります。このような修行は精進すればするほど無我の道から遠ざかり、空から離れ、法界の実相から遠ざかり、ついには魔道を成じやすくなります。
清浄なる大願・正願を伴わない精進は、邪精進とは言えぬまでも正精進ではなく、一切の修行は願いを先導とし、願いなければ事成らず、願いあれば事半ばにして功倍します。願いは加速装置の如く、深淵における梯子の如く、泥中における牽引の綱の如し。願いは業力の束縛を脱し、涅槃の彼岸に直達せしめます。小願は自己のため、大願は衆生のため、邪願は仮有のため、正願は真空のため、清浄のため。大願と正願が発せられぬのは修行が未熟な証し、一旦善根福徳が深厚に積まれれば自然に願い起こり、願いあるものは全て成就します。
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