衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年12月03日    土曜日     第2開示 合計3774開示

意根はなぜ言葉・文字および音声に相応しないのか

言語、文字、音声、これら法の作用は、身根と身識を離れては存在せず、身識と意識が共同で作用した結果であり、五倶意識の機能作用である。言語や音声の発生は、まず意根が意を発し、自らの考えや思想を表現しようとする。意根が念を動かすとき、脳波が波動し、意図は中枢神経系を通じて身根に対応するシステム、すなわち部位に伝達される。すると気あるいは気流が丹田から生じ、この気流は上方へ湧き上がり、舌根に至ると音声流が現れ、言語と音声が形成される。

したがって発話には気力が必要であり、気力が不足すると声は微弱になるか、あるいは全く発声できなくなる。言語音声は意識と身識が共同で和合して作用した結果であり、身根の協力が必要である。このとき舌は身根の一部であり、触味塵の機能作用は行わない。文字に関して、筆記やタイピングは意識と身識が和合して作用した結果であり、身根の協力が必要である。独頭意識は心の中に音声を持ち得、心の中に文字相が現れることもある。独頭意識が内省するとき、自らの心の声や文字相を知ることができる。

以上は六識の口行と意行、さらに身行に属する。身行は意識と五識が共同で和合して作用して初めて完成され、五根の協力が必要である。五根を離れては、身行の作用を完成させることはできない。六識の身口意行の造作は意根によって促され、意根の意念の作用である。意根は指揮官のようなものであり、六識は命令の執行者である。指揮官が意を動かし、脳波が伝達され、命令が発せられた後、全身の神経系が作動する。

意根の意は信号あるいは暗号のようなものであり、意識はその一部あるいは大部分を理解できるが、智慧が不足していると全てを理解することはできない。六識が命令を執行し、具体的に作用するとき、初めて言語・文字・音声が現れる。これは操作システムの機能作用である。指揮システムは暗号コードの形式でのみ操作し、五根の協力を必要とせず、意根の意行は完了する。五根の協力がなければ、当然ながら文字・言語・音声が現れることはない。

独頭意識が色身を離れるとき、五根の協力がないため、同様に文字・言語・音声は存在せず、話すことも書くこともできない。心念もまたコードや暗号に似たものであるが、意識自身は完全に理解している。理解した後、五根の協力があれば、文字・言語・音声として表現できる。意識がもし意根の心念を理解すれば、同様に文字・言語・音声を用いて表現できる。したがって文字・言語・音声は心念の表現手段であり、意根はこのように表現することはできず、意識と五識を通じてのみ表現する(神通がある場合は除く)。

第八識の暗号・コードは、六七識が識を転じて智と成し、相当程度の道種智を具えたときに初めて理解できる。それ以前は、六七識とも解読することはできないが、第八識から与えられる福利待遇を享受することはできる。享受しながらもそれを知らず、自らの努力で得た福利待遇であり、自らが天然に所有すべきものだと思い込む。コードは智慧によって解読される必要があり、智慧がなければ巧を弄して拙となる。暗号やコードは全て比喩であり、心念の形式を説明するためのものであり、実際に暗号やコードが存在するわけではない。

——生如法師の開示
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