衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年11月25日    金曜日     第2 回の開示 合計3765回の開示

瑜伽師地論第三十四巻(五十六)

また、このような了相作意は、なお聞思が混在するものと知るべきである。もし観行者が諸諦においてこのように数々正しく観察するならば、十六行相によって四聖諦の証成道理を得て、すでに決定心を得る。さらに諸諦の尽所有性と如所有性において、聞思の混じった作意を超え、ひたすら修行勝解を起こす。これを勝解作意と名付ける。このような作意はただ諦境を縁とし、常に定中にある。これを修習し、重ねて修習するが故に、苦諦と集諦の二つの境において無辺際智を得る。

釈:上述の了相作意は依然として混在した聞思の智慧に属する。もし観行者が四諦においてこのように不断に正観察すれば、十六行相によって四聖諦の証成道理を得て、心に決定を得る。さらに四聖諦の尽所有性と如所有性において、混在した聞思作意を超え、ひたすら修行勝解を起こす。これを勝解作意と呼ぶ。この作意はただ真実の境界を縁とし、常に定中にある。勝解作意を修習し勤め修習するが故に、苦諦と集諦の二つの境界において無辺際智を得る。

四聖諦に対する決定心を得る前の了相作意は、聞思が混在し、純粋な正観察ではなく、また不断の観察でもない。もし不断に正観察できて初めて、四聖諦に対し決定心を得る。決定心を得た後に勝解が生じ、勝解の後に証が得られる。四聖諦の尽所有性とは四聖諦が覆う範囲を指し、如所有性とは四聖諦の理にかなう全ての性質を指す。もし観察が不断の正観察であれば、混在した聞思の段階を超え、この時四聖諦に対する勝解を起こす。これを勝解作意という。もし常に禅定を保ち、禅定を失わず、心がただ四聖諦を縁とし、他を縁としないならば、このような作意観察によって無辺際智を得るのである。

——生如法師の開示
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