原文:集諦の相を正しく覚了した後、さらにこの集諦が余すところなく滅尽したことを正しく覚了する。故にこれを滅と名づく。一切の苦諦が余すところなく寂静した故に、静と名づく。この滅静こそが第一であるが故に、最勝であるが故に、無上であるが故に、妙と説かれる。常住なるが故に、永遠に離脱したが故に、離と説かれる。このように修行者は四種の行によって滅諦の相を了知する。
釈:集諦の相を正しく如実に明らかに覚悟した後、さらに滅諦の四種の行を正しく如実に覚悟しなければならない。集諦が完全に滅尽した時、これを滅と名づける。集諦が再び集起しなければ、苦は滅する。一切の苦諦が滅して余苦がなくなった時、寂静となる。五蘊の造作もなく、五蘊の受苦もない故に静と名づける。このように苦諦が滅して寂静となったことは、世間において第一であり、最勝であり、無上である故に妙と説かれる。苦諦が滅した後は余苦がなく、苦が再び生じることはない。この状態は永遠に存在し、永遠に苦を離脱した故に離と説かれる。このように瑜伽行者は滅・静・妙・離の四種の行によって、滅諦の相を明らかにする。
滅・静・妙・離の四種の行によって滅諦の相を了知する。苦が滅するのは集が滅したためであり、苦行を再び集起しない。五蘊の身口意の行は全て苦行である。特に悪しき不善の身口意の行は、心が五蘊の世間法に攀縁しなければ、苦を集めることなく寂静を得る。心が寂静を得た後は自在解脱する。これは世間において奇跡的で美妙なことである。世間では普遍的に攀縁と苦が存在し、寂静でなく自在解脱していない故に、生命は妙ならざる状態にある。解脱自在の生命は世間において第一殊勝であり、最殊勝である故に美妙である。苦を滅し解脱した後は、再び苦を受けることはない。解脱は永遠の解脱であり、無明煩悩の境界に戻ることはなく、永遠に苦を離れる故に離と称される。このように滅諦の相は滅・静・妙・離の四種の行によって、極めて明確に示される。
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