衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年11月15日    火曜日     第3 回の開示 合計3751回の開示

汚れた意根はなぜ汚れた前六識しか生じないのか

前六識は意根の選択(思心所)に依って現れるものであり、意根が求めるものに他なりません。意根が何を必要とするかによって、六識は生起してその役割を果たします。従って、意根が染汚であれば六識はそれに従って染汚なる業行を造作し、意根が清浄であれば六識は清浄なる業行を造作します。十二因縁が明示する衆生の生滅流転の根本因は、意根に無明が存在するためです。無明を縁として意根の無明なる行が生じ、その行を縁として六識の無明なる身口意の行が生起します。これら身口意の行は全て阿頼耶識に落謝して種子となります。

意根の行とは即ち意根の選択行為であり、意根が選択を下せば六識が生起して意根の造作を補助します。故に、意根が染汚で無明を有する場合、助手たる六識は意根の染汚業行を補助せざるを得ません。仮に意根が染汚を有しながらも染汚行を選択しない場合、意識は自らの清浄をもって意根を熏染し、意根が意識の清浄行を容認すれば、清浄なる業行が生じ得ます。従って修行とは善法を熏習し、この善法をもって意根を熏染し、以て意根の無明を破砕し、意根を転換させることにあります。心が清浄になれば、将来清浄なる果徳を享受することができるのです。

——生如法師の開示
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